昨日は記事を書いたとおりの出来事があって、
→昨日の記事「頼むから勝手に幸せになってくれ」
わたしはわたしがおもしろいと思える世界で堂々と生きてゆこう、
妬み不幸せ族とはもう交われないのだから、気にしたり遠慮したりすることなくやってゆこう。と、改めて覚悟したところでした。
(しかもなぜかこの昨日の記事が好評で、感想を届けてくださる方がたくさんおられました。こちらこそありがとうー!)
そうしたら今日ね。
仕入れに出かけた食材店で、店主(インドから戻ったばかり)とすっかり話し込んでいたら、
お客さま(日本人)がいらっしゃいました。
そしてインドネタをきっかけに、このお客さまも巻き込んでお話しているうちに、
これからのお仕事で関わるかもしれない案件が出てきたから「連絡先を交換しましょう」ということになったの。そしてFacebookで繋がってみたら…
「あーー!以前お会いしたことありますよね?っていうか一緒に飲んだことがありますよね?!」
というわけで、まさかのまさか、数年前のインドフェスでテーブルをご一緒した人だったのです!
いや、どんな再会よ!?ミラクル!
もう数年前のことだし、
あの時はお互いに友達が一緒にいて、
たしか、そのときにわたしと一緒にいた友人が、この方とお友達だったとかなんとかで、
雨が降っていた(たしか)の野外フェスで、テントの下で雨宿りがてらビールを一緒に飲んで気がする、のです。
シチュエーションやそれが何年前の出来事か?はもう覚えていないレベルなのだけれど、
そのときに話したあるインド人の友人の話が印象に残っていたから、「あの人の話しませんでした?」と聞いてみたら、
やっぱりそうだった。
あのとき、あの話をした人。
数年の時を経て再会。連絡先を交換するという展開。
今日再会したこのお方も、好きなことをしておもしろい日々を送っている人のようなので(だって数年前は「毎月」インドに行っていた、とか言うんだよ。「毎月」ですよ。どうかしてる(日本の一般常識と言う目線から考えたら、ね)笑)
「いやーおもしろいわ!つくづくおもしろい!世界のどこで誰といつ会うかはもうわからん。ますますおもしろい世界でいこう」
と思いつつ、次の用事を片付けて運転していた帰り道。
本来であれば営業を終えているはずの、贔屓のお店の前を通ったら、
なぜか電気がついていたのでうっかり立ち寄り。
営業は終わっていたけれどちょうど仕事を片付けていたところ、ということで少しお話していたら、
先日から気になっていたおもしろ話の続報を聞くことができました。
この話もね、最近のわたしの目玉ネタで、これからの展開が楽しみだったやつなの。その続きをオンタイムに聞けちゃった!
そしてやっぱり「おー!いいね!」な感じで、これまた楽しみになってうきうきしました。
以前にも書いたことがあるけれど、
→クソな出来事とハッピーな出来事が同時発生したときに
二極の出来事は同時に起こることが多いみたい。
そして、
そのようなふたつの出来事が起きた時はまさしくチャンスで、
「ほら。で、あなたはどっちの世界にいくの?」
を確認できる、自分のハラを決め直す良い機会なのです。
「あぁムカつく、本当に嫌だ」という出来事と、
「おお!楽しいー!」という出来事が同時期に起きたら、
自分はこっちへ進みたい!がはっきりするでしょう。
白黒、濃淡がはっきりしているぶん、自分の好みが見えやすい。感じやすい。
今日確信しましたよ。
「まじで、こっちのおもしろい人たちの世界で生きよう」って。改めて確信。覚悟。
よく、パラレルワールドの話があるじゃない?
今この瞬間に、いくつもの世界が同時発生しているという説。
例えば、2018年も、江戸時代も、未来都市も、実はいまこの瞬間に全て起きてるよ、みたいなやつ。
(うまく説明できないので各自調べてください。笑)
本当に、いまこの瞬間にどこかの時空では江戸時代も存在しているかどうか?はわたしにはわからないけれど、
様々な人の様々な世界が同時に平行発生はしているんだぁと思っていて、パラレルワールドの話もすこし実感が湧いてきました。
だって例えば、
「今日これから出かけようよ!」という誘いに対して、
「やったぁ行く!行く!」と言う人(Aさんとしよう)もいるし、
「えー。なんで急に誘うの?もっと前から言ってくれないと予定が立たなくて困る。無理」と言う人(Bさんとしよう)もいる。
このAさんとBさんでは、生きている世界、見えている世界がもう全く違うよね。
急な誘いを楽しめる人と、
文句を言う人。
起きる出来事を楽しめる人と、
楽しめない人。
おもしろい世界と、
不満いっぱいの世界。
両者は全く別のものじゃないですか。
だけど、この地球上に、同じ時空のうえに、両方の世界が顕現している。
となるとやっぱり、パラレルワールドだなと感じるのです。
だから、
同じ地球上にいるからといって、同じ日本に住んでいるからといって、よく顔を合わせるからといって、長年の付き合いだからといって、
各人が「いま」みている存在している世界が「同じ」とは限らない。
自分には自分の世界があって、
相手には相手の、あの人にはあの人の、
それぞれの世界があるだけなんですよ。そしてそれぞれの世界を持ち寄りつつ、それぞれが生きているだけなの。
わりと似た世界を持ってる人もいるし、全然異なる世界を持っている人もいる。
似た世界を持つもの同士はわかりあえることも、通じる話も多いけれど、
異なる世界の人とは、話も言語も通じない。この場合の言語というのは日本語や英語という、言語の種類のことではないよ。同じ日本語を話していても、全く理解できない、意味が通じない人もいるでしょう?そういうことです。
その世界が似ているか似ていないかは、
関係性や肩書きや付き合いの年数には由来しません。そのことを念頭に置いていないと、
「長年の付き合いなのに、なんであの人には通じないんだろう?」という、無駄な悩みやストレスを抱えることになります。
「いま」理解し合えない人は、理解し合えない。以上。
これまでに世界が似ていたことはあったかもしれないけれど、
今後また世界が近づくことがあるかもしれないし、ないかもしれない。
これからのことはわからないけれど、「いま」理解し合えないということはわかっている、というだけ。それは良いことでも悪いことでもなくて、「いま」そうなっているという単純な現象というだけです。
他人の世界をいじることも創ることも、それを正したり直してやったりすることもできません。
自分でできるのは、自分の世界を創ってゆくこと。
そして自分の世界を完全に自分好みに創ってゆけば、そこは快適で楽しいわたしの世界になるよ、というだけです。
そんな自分好みの世界を創るために、まわりの意見を取り入れたり視線を気にしたりしている暇なんてないんだよ。
例えば。
いま自分がシルバニアファミリーで街を作って遊んでいるとしましょう。
隣のお友達は、隣でその人が持っているシルバニアファミリーで街を作って遊んでいるとしましょう。
そのときに隣のその友人が、「その家はもっと端に置いた方がいいよ」「そのうさぎにはこの服を着せた方がいいよ」と言ってきたとしたら、その通りにしますか?
「いやいや、それは自分のシルバニアファミリーでそうしたらいいじゃん」ってなりません?
わたしのシルバニアファミリーの家は好きな場所に置くよ。わたしのウサギには、わたしが着せたい服を着せますよ。
あなたはあなたのウサギに提案してくれるその服を着せたらいいじゃん。
これとまったく同じことですよ。
シルバニアファミリーだったら、「あなたのウサギにあなたが着せたい服を着せなさいよ」となるのに、
現実世界の出来事となると誰かが言った何かを鵜呑みにしたり「あの人が言った服を着せた方がいいのかな」となりがちです。なんで、現実世界の出来事となった途端に、こう間違ってしまうのだろうか。人間の間違いやすいポイントですね。
そうそう、自分は(人間は誰しも)、
「シルバニアファミリーをセットして、作って遊んでいる側」の立場ですよ。それはわかるよね?
「シルバニアファミリーのウサギ」ではないんだよ。
この地球上で行動をするときも、
その視点を忘れることなく。
シルバニアファミリーの街を作って遊んでいる側の立場、であることを自覚して、
自分が好きな自分の街を作るんだよ。
言い方を変えたらそれは、
自分の世界は自分で創るんだよ。ということ。
そして、
二極な世界、白黒や濃淡のはっきりしたふたつの世界が同時に目の前に発生したときは、
これからまた創ってゆく自分の世界はどんなのがいいかな?のはっきりとした大きなヒントをもらえている、というときなんですよ。
ヒントは大いに活かそうね。
❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験