訃報からのリマインド

このところ、著名な方の訃報が続いている気がします。
最新では樹木希林さんとか。ついこの前はさくらももこさんとか。
小さい頃からテレビでお見受けしていた方々だから馴染みがあるし、
各SNSのタイムラインでも、その訃報を受けての記事やコメントも目につきます。

 

いつもいつもいつも!言うけれど、
誰かの訃報を耳にしたときに、まったく関係のない第三者が「まだ若いのに」と言ってみたり、
故人の人生や病気で亡くなった場合にはした治療、あるいはしなかった治療等について、とやかく言うのはまったく意味のないこと。
そして必要以上に感情移入するのも不要なこと。

 

人間はほぼ100%亡くなる。これは絶対的な事実。
ここで “ほぼ” とつけるのは、わたしはヒマラヤに住んでいるらしい不老不死の聖者(ババジなど)の存在を信じているから。不老不死の人、肉体の限界を超えて存在している人もいるらしくて、それを信じているから “ほぼ” と言う。
不老不死の聖者なんているわけないじゃん!という、信じない人からしたら、人間は100%亡くなる。と言えるよね。
まぁとにかく、100%にかぎりなく近い確率で、人は死ぬわけです。

ここで、死ぬのは何か?肉体なのか魂なのか?と言い出したらキリがないけれども、
いまは「肉体が死ぬ、亡くなる」ことについての話です。

 

誰かが亡くなることが寂しいとか、自分が死ぬほとが怖いとか、
そういう感情的な話は一旦横へ置いて、「亡くなること」「死ぬこと」というにはただただ事実です。

そしてそれがいつなのか?はよくわからない、ということも事実です。
病気などで余命がわかっている人もいるけれども、その場合だって、
告知された余命ピッタリで今生を終える、そんなわけがない。告知された時間よりも長いかもしれないし、短いかもしれない。わかりません。

いま、今日、健康で何も問題がないように感じている人だって、
明日病院でたいそうな病気が見つかって、急に余命告知を受けるかもしれません。

明日、事故に遭うかもしれないし、
次の瞬間、大地震がくるかもしれない。

もちろん、そのようなことが何も起きず、あと数十年生きるかもしれない。

 

つまり、「まじでわからない」んですよ。
自分にとって、今生はあとどれくらいの時間があるのか、わからない。これが事実。
残っている時間がどれくらいかはわからないけれど、いつかは絶対に死ぬ。これも事実。

今日、いま、この瞬間は生きている。これも事実。

 

だからね、出来ることとやることは、
いまこの瞬間を幸せに生きる。自分が満足するように生きる。ただそれだけです。

いませっかく、いのちがあるから。肉体を持ってここの場所にいられるのだから。
じゃあ何がしたい?
肉体を持っているからこそ出来ること、やりたいことは何?
誰かに言いたいことは?会いたい人は?聞きたいものは?味わいたいものは?体験したい感情や出来事は?

そういう、「いま肉体があるからこそ出来るやりたいこと」を、いまこの瞬間からやっていくしかありません。
だってそれらをやらずに、やろうともしないうちに「それがいつかはわからないと思っていた最期の瞬間」が来てしまったら、後悔するじゃん。「あぁ、もう今生が終わってしまうならやっておけばよかった。わかっていたらもっと早くやったのに」ってなるじゃん。

そうなることが目に見えているんだから、
目に見えているなら、わかっているなら、とっととやるしかないじゃない。

 

お金ができたら。時間ができたら。これが終わったら。恥ずかしいから。
…そうやって後回しにしたり、びびってやらないでいるうちに、
時間切れになったら後悔するでしょう。

だから、「いま」やるの。
言い訳しないで。後回しにもしないで。「いまから」すぐに取り掛かる、やるんだよ。
死んでしまう前に、やるの。それだけ。

 

自分以外の誰かに残された時間が少ないとわかっている場合も同じだよ。
「いま」目の前にその人がいることは事実。
あとどれくらいかで、その人が亡くなることも事実。それは数日かもしれないし、数ヶ月かもしれないし、数年、数十年かもしれない。時間はわからないけれど、亡くなることは事実。

だから、「いま目の前にいる」という事実があるうちに、
お互いの肉体があるからこそ出来ることやりたいことを「いま」やるんだよ。
伝えたい言葉を伝える、聞きたい話を聞く、触れたいように触れる。なんでもいいけれど、いまそこにお互いがいるからこそ出来ること、やりたいことを、いまやる。とっととやる。以上。

 

それをやらない、やれなかった、できなかった、からといって、
後悔することは、これまでの地球人類史上の先人たちがたくさんやってみせてくれています。
肉体がなくなる、ということも証明してくれているし、やらなかった後悔話を見聞きしたこともたくさんあるでしょう。

 

いいかげん、学ぼう。誰かがしてくれた後悔をわたしたちがまたする、という無駄はやめよう。
いまこの瞬間にある事実、をひたすら受け取って、いまできることをいまからやる。それだけです。

 

 

どなたかの訃報、というのはこのことをリマインドさせてくれる、ありがたい出来事です。
そうやって訃報を活かしたら、亡くなった人だって最後の最後まで人の役に立つことができる。お互いにとってありがたい話になる。

 

 

 

亡くなった誰かに対してできること
後悔しない人になる

このあたりの記事もあわせてどうぞ、リマインド。
ほとんど同じことしかいっていないけれど。笑

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です