やっぱり「予定を立てる」は無駄だわ

2日くらい前かな?突然、
「インドからこのようなグルジ(ヨガの先生、マスター)が来日することになったのだけれど、Adhyatmaでクラスを開催しない?」
というお誘いが来たの。
突然の連絡にもかかわらず、この来日の日程が来週末…!
あまりにも急だし、そもそもわたしも会ったことのないグルジだし。

「誰やねん?」というところからの話のスタート。笑

 

「普通(一般社会の常識)だったら」そんなに急な話、しかも知りもしないグルジの講座をオーガナイズするなんて!?やるわけないじゃない!となると思うけど、
このときのわたしは「なんだか興味が湧いた」んですよ。

しかし一方で、「いや、知らないグルジだし。そもそも自分が知りもしない人のことを、大切な生徒さんに自信を持って勧められない(告知できない)しなぁ」と思う部分もあったの。
あとそもそも、オーガナイズにあたっての規約やフィーについてのやりとりも、なーんにも決まっていないどころか提案すらなかったのです。

 

「なにもわからない」状態。
だけれども、「やる?やらない?」を聞かれている(返事を待たれている)状態。

意味がわからないよね。笑
(しかしそういう「最初は全く意味がわからないけれど、のちになって“あぁそういうことだったのか”がわかるのがインドマジック)

 

こういうときにできることは、
自分の感覚を信じることと、
どこまでも正直であること。
これ以外にありません。

だからとりあえず、「なんか興味がわいてしまった」感覚に従って
だけれども「わからないことがありすぎてyesともnoとも言えない」という自分の不安を解消すべく、
聞きたいことをすべて先方に聞いたのです。しつこく。
そもそもそのグルジがどういう人なのか?から、フィーについてのビジネス的なことから、
そして「興味はあるんだけど、こういう点は一人で運営できなそうで不安。できるかどうかわからない」ということまで。すべてを正直に伝えたの。

 

そしたら、先方が、わたしの質問にはすべて答えてくれたうえに、
「この点とこの点はこうやって手伝うよ」って、わたしの不安も解消してくれたのです。

 

 

ここまで来ると、
やっぱり感覚に従って、かつ正直にすすめたらうまく運ぶしかないんだなー!
という展開だと思うでしょう?!

 

ところが、ここからがインド。笑

 

一旦すべて決まって、じゃあフライヤーを作って…という話まで具体的に進んで(たった2日で。このスピード感)、いい感じの流れと勢いだったのに、
今朝、先方から「あやまらないといけないことがあります。グルジのVISAが通らなくて来日しなくなっちゃた。尽力してくれたのにごめんね」
という内容のメールが来たんですよ。

 

あー笑える!笑うしかない!
この2日のスピード感と完全にまとまっていた流れはなんだったのでしょうか!?笑
そして、「ごめんね」というメールの軽さ!(ちなみにそれはFacebookのメッセンジャーで来た。軽い!笑)

 

このときに、
「せっかくこっちはこうして準備したのに」「スタジオの予定を決めたのに」
とならずに、わたしが「笑える!」とか言ってしまえるのは、この話において自分がひとつも無理をしていなかったから。
気になることはすべて聞いて、手伝って欲しいことはすべて手伝ってもらう約束をとりつけていて、スタジオが空いているスケジュールで「やれる範囲でやりたいことをやる」約束しかしていなかったから。
自分が無理をしていないから、「無し!」になっても「せっかく…!」という怒りが湧かない。

これがもし、他にも予定があったのに「せっかくインドから先生がくるなら…」と、
「インド」や「来日」や「グルジ」というフレーズに自分を譲って、自分の予定を犠牲にしてそれを「やります」と言っていたら、
「はぁ?せっかくこっちは予定を立てたのに無責任だ!」
という怒りがわいたことでしょう。

 

しかし、こちらも無理のない軽いノリだったから、
相手が軽いノリで「VISAが通らなかった!」と言ってきても、怒れないの。

 

 

そして、改めて思ったんですよ。
「やっぱり予定とか未来を確定することなんて無理だわ」と。「ひたすら今のことだけやろう」と。

だって「グルジの来日」という、なかなか大きな話題ですら、
1週間前にVISAが通らない!とか。どうなってんのかな?です。

これ、日本の常識だったら「えぇ。VISA通らないの!?どうしよう…」って慌てふためくところでしょうけれども、
インドのノリだと「VISAが通らなかった。しょうがないね」という、なんだか慌てふためくという感じが起きないんですね。

 

わたしが8月にインドへ行ったとき、
急に決まった話だったから、「VISAがおりたらいけるかもー」というノリで申請をかけて、
実際にVISAが手元に届いたのは出発2日前、航空券が届いたのが前日。
「揃ったから」いける!で行っただけ。

このときは「揃ったから行った」けれども、ここで「揃わなかったら行かなかった」だけ。

 

どうしても行かないといけない、とか、
予定したことは遂行しなければならない、とか、
行くって周りにも言ってしまったのに行けないことになったら恥ずかしい、とか、
そういう「こうしなきゃいけない」や人の目を気にしていると、
「予定通りにいかないことは恥ずかしくて嫌なこと」になってしまうけれど、

揃ったら行けるとき、揃わなかったら行けないとき、くらいの、「予定通りなんてそもそもないよーん」くらいのノリでいると、
予定通りにすすまなくて苦しい…こともないし、逆にしかるべき自然の流れに乗っかって、
仮に「予定通りにすすまなくて行けなくなった」ような展開だったとしても、「あぁ、こういうわけで行かなくてよかったのですか!」と納得するような、自分にとってもっと面白い出来事の方へ運ばれてゆくんですよ。

 

やっぱり、「予定をたてる」とか、無駄だわ。笑
(いよいよ「無駄」とまだ言い切る始末。笑)

 

「こうしたいなー」という希望や願いは持っておいたらいいけれど、「そのためにこのときにこうしてこれをやって」みたいな、ガチガチな予定を決める必要はまじでないですね。
「こうしたいなー」を掲げたまま、「いま目の前に現れるもの」に正直に対応していたらいい。それ以外にやることはないんだな。

 

 

で、結局グルジの来日は本当に無くなり、その日の講座はもちろん無くなりました。

 

「こんなに先方とやりとりしたのに。正直なやりとりしかしていないのに。講座はうまくすすまなかったなー。なんだろうな」
と思っていたんですよ。なにがあるのかな?って。

そしたらね、もう全然違う切り口なんですけど、
わたしのヒンディー語の先生が見つかりました!まさかの展開。

 

実は先週から「ヒンディー語をもっとちゃんと話せるようになりたい」と思っていて、「誰か先生いないかな?」とぼやいていたの。
ちょうどインド人のパーティーに出るという人がいたから「わたしの先生になりそうな人を探してきて」とお願いしてみたものの、なんだか良いお返事が来ず。
そんなことはすっかり忘れていたのだけれど、今回のこのグルジの来日の件でやりとりをしていたら(やりとりの相手がインド人)、
「VISA通らなかったの。ごめんね」の後に、ひょんなことから語学の話になり、
「そういえばわたしヒンディー語を勉強したくて」という話をしたら、すぐに先生が見つかった!というスムーズな流れなのです。

 

いや、本当に完璧。
先週「もっとっちゃんと勉強したいなぁ」と思って時点ではすぐに具現化しなかった“ヒンディー語の先生”が、一週間で、そして全然違う切り口をきっかけに現れました。

 

やっぱりね、
「こうしたいなー」という希望や願いを掲げたまま、「いま目の前に現れるものに対応する」のが最善ですよ。
目の前に現れるものに対応したことが、そのままスムーズにその形になるわけではないかもしれません。

例えば今回で言うと、講座のオーガナイズという仕事が目の前に現れたから真摯に対応をする、それによってその講座がうまく運ぶ、という直接的なスムーズな形になるわけではないということ。
けれども、講座のオーガナイズという仕事が現れたから真摯に対応をしたら、講座は叶わなかったけれど、願っていたヒンディー語の先生が形になって現れたんですよね。

 

どこがどう繋がるのかはわからん。

けど、どこかはちゃんと繋がっていて、ちゃんと形になるんだよ。
だからやっぱり、やれることは、
「こうしなきゃ」という未来を作ろうと、そのための「予定」を遂行しようとしないで、
「いま」をひたすら正直に対応してゆくこと。それだけです。

 

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

 

 

 

 

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