このところ水面下で様々な出来事が起きています。
昨日まで予定していたことと、まったく真逆、180°反転したことが起きる今日、のような状況なので、まじで盛りだくさん。
でも、「自分にとって良いように」しか展開していないことも事実。だからこれでいいのだ、というか、これがいいのだ。
自分が予想していたよりもはるかに良い展開、というのは、
あまりにも壮大すぎて自分では予測しようがない、願いにすら浮かばない、という出来事。
人ってみんな「こうなったらいいな」「ああなりたい」「こうしよう」っていう願いを持つけれど、
自分が「想像できる範囲」の願いや夢しか描いていないものなの。
例えば、欲しい車(高級車にしよう)があるから、と「宝くじが当たりますように」と願うでしょ。
その車(高級な)を購入できるほどのまとまったお金を得るために「予想できる、思いつく、パッと大金が入る方法」を願うから、「宝くじが当たりますように」を願う。
そしてだんだん、「宝くじが当たりますように」「当たれ」「なんで当たらないの!?また次も買う」…というように、「宝くじを当てる」ことに執着してゆく。
けれども、ちょっと待って。本来の希望は「欲しい車(高級車)を手に入れること」だったはずじゃない?
なのにいつの間にか、「方法」のほう(この例でいうと宝くじ)に執着してとらわれてしまうんだよね。
で、「宝くじを当てる」という方法はパッと思いつくけれど、
「道端でばったり石油王と出会って仲良くなって油田(大金を生む)をもらってしまう」なんていう方法は思いつかない。
でも、車(高級車)を購入するという願いを叶えるためだったら、宝くじを当てないで、石油王と出会う、でもいいでしょ?
なのに、「そんなことはありえない」と心のどこかで「ありえない」を信じているから、
「石油王と仲良くなる」なんていうことは願えないの。
願えないから、そりゃそんな現実は起きない。だって願ってすらないんだもの、現実に起きるわけがないじゃない。
自分の希望や願いを叶えるために「この方法をうまくいかせよう」という、
「想定した方法(上記の例でいうところの「宝くじを当てる」)がうまくいきますように」を願っても意味がないんだってば。それをやっている限り、「その方法がうまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。その方法を遂行できるかなできないかな、というところでぐるぐるする」だけで、それ以上すすめないの。すすめないから、その方法の先にある、「本当に願っていたこと、欲しかったもの(上記の例でいう高級車)」が手に入らないんだよ。
だから、願うのは「車(高級車)を自分のものとして乗る」ということだけでいいの。
どうやったらその車が自分のところへやってくるのかは、
自分で予定を立てたり方法を探したり、はしなくていいよ。
ついでに言うと、「なぜその高級車を欲しいと思ったのか?」を自分の中で精査してみて、
「その高級車を自分で運転したい」だったら、そのまま願えばいいけれど、
もし「快適に移動がしたいから」と言う願いが出てきたとしたら、本当の願いというのは、その高級車を手にすることではなくて、「快適に移動をすること」だよね。
そうしたら「快適に移動できるようになる」を願えばいいだけ。
そうしたら「高級車」という自分の想定をはるかに超えて、「運転手さん付きの生活」を送れるようになるかもしれない。そんな現実がくるかもしれない。
「高級車が欲しい」を願っていたら、「運転手さんが付いている生活」は現実に来ないでしょ?
けれども「移動を快適にする」を願っていたら、「どんな方法かはわからないけれど、快適に移動できる現実や生活」が来るんだよ。ということで、高級車を飛び越えて、運転手さん付きの生活が来る、なんてことが起きるわけなのです。
だから、なにかを願うときは、
本当に本当に自分がしたいことや生活やその様子を、遠慮なく気分よく描くのがいいよ。
「そのためにどうするか」は自分で予定をたてなくていい。そこは「なぜかどうにかなる」やつだから。
そうしていると、自分が「思っていた以上」のことが起きて、結果、「夢のよう」な現実がやってきてしまうのです。
❤︎記事を読んで良いこと!腑に落ちた!ミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験
循環起こして魅せましょう♡
くぅぅ!
ズキュンと来ました。
まさに宝くじ当たることを願ってるワタクシ。
2か月くらい前から毎週自動購入の設定しちゃった(*’ω’*)
願い事小さくしてるのかなー。
でも福袋的な懸賞的なドキワク感が好きだから買い続けますけどっ!
願い事とは別個に考えないとなのかな。
ううーん、難しい!笑