いつか書き上げようと思って、ずっと “下書き” というフォルダに入れていた文章と同じことを今朝も考えていた&実証したので、
ようやく完成させてアウトします。
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このところ日本は冬が近づいてきていて、着々と寒くなってきている。
しつこく言っていますけれど、病後、寒いと不調が出やすいわたしとしては、
寒いことがとにかくとっても嫌です。
そういうわけなので今年ももれなく「寒いが近づいてきている、調子がイマイチ」とか言い始めていたのだけれど。
そんななか、よくよく振り返ってみたんですよね、自分というものを。それこそ子どもの頃にまで遡って。
そうしたら、ふと気がついたんですけど、
わたしはそもそも、そんなに身体が強いタイプではなかったんです。子どもの頃から、「季節の変わり目には必ず体調を崩す」というのがもはや恒例行事だったし、おそらく兄弟のなかでも最も病院にかかったタイプだと思う。
小学生の頃は体育の授業を見学していたことがよくあったし、その「見学中に見ていた光景」をよく覚えている。
だからね、そもそも、そんなに肉体レベルが頑強なほうではないんですよ。
なのに、「親に心配をかけたくないから」とか「みんなと同じように元気でなんでもできないといけない」と思っていたゆえ、
頑強な自分になりたかったし、そうなろうとしてた。
でも「そうなろうと思っていた。なりたかった」というだけで、そもそもそういうタイプじゃないんですよ。気付いちゃったよ!
そもそもの自分の本当の姿、
と、
後付けでこうなりたいと思ってそうなった自分の姿、
は違うんだ。
現代社会日本、だと、なんかしらんけれど、
「男女という隔たりもなく、みんなとおなじように仕事をして、家のことをやって、しかもちょっとステキにな生活をするのがよろしい。それができない人はダメ。サボることはよくない」
みたいな風潮があるように感じます。多くの人がそう感じているかはわからないけれど、少なくともわたしはそう感じていたんだよね。
だから「みんなと同じように働いて生活をして…」としなきゃいけない、って気持ちのどこかを、そんなものは存在していない何かに脅迫されていたんだけど、
よくよく考えたら、そんな脅迫なんて誰もしていなかったよ。なのに、「なぜか自分で自分を追い込む」をやっていたんですよ、自作自演。
そしてその「みんなと同じように動けないといけない。サボるのはいけない」と脅迫のような思いこみから、それができるようになるために「身体の強い自分」になりたかったんだと思うんですよね。なりたかった、というか、「ならないといけない(じゃないとみんなと同じように動けない。そうやって動けないとこの社会では生きてゆけない)」と思っていたんです。
でもね。
でもね。
そもそも、そんな頑強な肉体スペックは持ち合わせていないんですよ。
だから無理。そもそも無理。
日本で石油を掘ろう、っていうくらい無理。そもそもそんな油田が眠っていないんだよ。掘るものがないんだよ。そりゃ無理に決まってるじゃん。
こう書くと当たり前の話なんですけど、
「身体弱め・体力少なめ」という自分の特徴を、自分で「それではいけない困った弱点」だと思い込んでいたから、
なんとかして直してやろう、改善しよう、変えようとしていたんだよね。
でも、これは「そのままではいけない弱点」なのではなくて、「自分の特徴のひとつである」とすることができたら。別に改善しなくてもいいし、このままでもいい、ってことにできる。
そんなこんなで、「身体弱め・体力少なめ」という、認めたくなかった(認めたら生きてゆけないんじゃないか不安だった)自分の弱点にようやく降参したんです。降参した、というか、降参できるようになった。
このままで、タフにならなくていいし、この肉体でよかった。この肉体を持ってやれること、できることをやっていけばいいや、って。なんか良い意味で諦めがついて、とてもとても気が楽になりました。
自分の身体状況や体力を、社会に合わせる、のではなくて、
社会を、自分の世界を、自分の身体状況や体力に合わせてゆく。
それがいいね。
***
ってここまで “下書き” に入れてあったんですね。
そしてこれには続きがあって、
自分の弱点–つまりできないことや人と同じようにならないこと、を自分で受け入れるようになると、
「それができないままでも大丈夫、なんとかなってゆく」世界がやってくるのだと気がつきました。
社会を、自分の世界を、自分の身体状況や体力に合わせてゆく。って書いたけれど、
たしかにそうなんだけど、もう少し言うと、
自分の身体状況や体力(その弱点)を自分で受け入れられたら、勝手に社会や自分の世界が自分の状況に合ってゆく、のですね。
自分に合わせて周りをなんとかしよう!とする必要もない。
やることはひとつで、
「自分の弱点を自分で受け入れること。降参すること」
それだけで良いの。
これを “下書き” に入れていたように、なんかもう本当に降参しちゃって、
「わたしの身体はこういう感じだし。だからこれはできるけどこれはできないな。でももうしょうがないや」って良い意味で諦めがついたら、
わたしが出来ないことは、ちゃんと出来る人が現れるんですよね。
わたしは出来ない、けれども、出来る人がいる。から、足し算すると結果ちゃんと出来ている。なんとかなっている。からやっぱり困らない。
今朝も体調がイマイチで「今日はなにもできなさそうだなー」と思っていたの。
これまでだったら「あぁ、上手に予定をこなせないじゃないか。なにもできないなんて一日を無駄にしてしまうな。どうしよう…」と感じてしまっていたところ、
今朝は「あぁ。今日はダメな日だ。しょうがないねぇ。ゴロゴロするしかないな」と降参して、それを「悪いことだ」と思うことがなくなったら、
なんだかわからないけれど、「ゆっくりしていたらいいよ」と「休むこと」に背中を押してくれる人が現れるし、そのうえ「体調どう?」とわざわざメッセージまで届く始末。ほらね、ダメなままでも良いんだよ。
しかも、今夜遅くにインド寺院のお祭りがあると聞いていて楽しみにしていたのだけれど、「今夜は体調次第では行けないかもな…」と思っていたら、
さきほど「お祭りは今夜じゃなくて明日の夜だって!」と訂正の連絡がきた。
ほらね。わたしの身体状況に世界が合ってきた。
降参する、諦めをつける、ことができたら、
身体は楽に、そして世界が調和してゆくんだね。
ただ、「降参する。弱点を受け入れる」のときに、自分の心というかエゴが痛むから、
降参する苦しみ、のような苦しさや嫌な気持ちが一時的に発生するよ。
この苦しさや嫌な気持ちを味わうのが嫌だから、そこから逃げて元通りの「諦めない」方に戻ってしまいがちなんだけど、その苦しさや嫌な感じはグッと堪えるのが良いよ。
そうすると堪えたその先に、楽な世界が広がっています。
❤︎記事を読んで良いこと!腑に落ちた!ミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験
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