多様性についての気づき

数日前に、タイプーサムというヒンドゥー教のお祭りがあった。
インド本国で禁止になっているお祭りとあって、わたしもとても楽しみにしていたの。

うちのガードマンさんがインド系の人だから、事前に色々と教えてもらって、◯時に行くのが良さそうだね!となんとなく予定を立てていました。
そのガードマンさんも「3日間お休みをもらっているんだ」と、とても楽しみにしてる様子。

 

しかしその数日前から、家の排水に気になる不都合があって、
管理会社に問い合わせたら、そのタイプーサム当日の朝に修理に来るっていうの。

お祭りを見に行く予定があったけれども、
管理会社が指定してきた時間がわりと早めだったから、
修理もお祭りも両方間に合いそう!ということで、その日に依頼しました。

 

そして当日。
約束の時間に修理の人が来てくれて、無事に水まわりも直ったところで、
お祭りに出かける準備をしながらフト気がつきました。

「あれ?今日はタイプーサムなのに、修理に来てくれた人は仕事に駆り出されちゃったってことでしょう?悪かったかな…」と。
それがあまりにも気になるから「悪いことをしたかなぁ…」とぼやいていたら、
「彼はインド人じゃないよ。イスラム教徒の人だよ」と言われて、わたしの気持ちもスッキリ(見た目だけではインド系の人かムスリムなのか、わたしは判別できなかった)。

 

インド人(ヒンドゥー教)でなければ、タイプーサムというインド(ヒンドゥー教)のお祭りは関係がないから、
この人(イスラム教徒)に修理に来てもらっても、差し支えがない。
逆に、ハリラヤ(イスラム教の新年)のような、イスラム教の人が大切にしているお祭りや祝日に、この人に仕事の依頼をしたら申し訳ない気持ちになる。
インド人のガードマンさんに、「タイプーサムの日にシフトに入って」なんてお願いするのも、ものすごく申し訳ない。ちなみにタイプーサムの日は、イスラム教徒の人がガードマンのシフトに入ってくれていました。
これから来る旧正月に、中華系の人に仕事をして!なんて絶対にお願いできない。けれどもわたしにとっては「普通の日」だからわたしは通常通りの暮らしをする予定でいます。

 

ミックスカルチャーって便利だなぁ、と改めて感じたこの日。
様々な文化の人が集まっているからこそ、上手にパズルのピースがハマる。

 

ある人(Aとしよう)にとっては大切な行事の日が、別の人(Bとしよう)にとってはなんてことのない通常の一日。
だったら、その日はAさんがお休みをとってBさんが仕事をすればいい。
逆にBさんにとって大切なお祭りの日は、文化的に関係のないAさんが仕事をすればいい。

みんなそれぞれ、違う文化や思想や宗教を持ちながら、
自分が大切にしたいものを大切にしつつ、相手が大切にしているもののことも理解できたら、便利にうまくまわることがあるじゃん!とつくづく思いました。
多民族国家においては、「自分はこういう文化・思想の人間です」を大切にしつつ相手のそれへの理解もないと成り立たない。から、自然とその形が形成されていて、なんだか便利にまわっているように見えるんだよね。

 

多様性って便利。
よく「みんな違ってみんないい」とか言うけれど、上記はそれが良い方向に反映されているひとつの例だよね。

逆に、「なんで同じにならないんだ?同じにしろ」というように「正しさの押し付け」や「優劣をつける」ということをした時に、争いや戦争が起きる。それは悪い方向に反映されてしまう例。それも起こり得る。

 

もしこれが、「みんなが同じような思想や文化や宗教を持っている国」だとこのようにはいかない。

例えば日本だったら、1月1日〜3日のいわゆる “お正月三が日” はお休みしたい人も、お休みになる会社も多いんじゃないかな。お盆とかもそうだよね。
その仕組みがダメだ、って言っているのではないよ。

ただ、「みんなが同じような思想や文化を持っている」ということを認識したうえで、
「それだと、みんなお休みしたい日が被っちゃうから、じゃあ全体的にお休みにしましょうね」ということにしたらいいはずなの。昔の日本はそうだったんじゃないかな?お正月はどこもお休み…みたいな感じだったでしょう?
けれども、時代の変化や西洋化?とともに、「お正月も営業します」「お店がやっているのが当たり前」になって来た。となると、働かないといけない人が出てきてしまう。けれどもそもそも、「みんなが同じような思想や文化」で形成されてきた国なんだから、
「その日は休みでありたい人」が多いに決まってるよね。となると、仕事と働きたい人の需要と供給に不調和が生じてしまう。誰かが無理をしないといけなくなってしまう。

 

それって結構つらくない?

 

わたしはそういう、
誰かやどこかに負担がかかること、つまり不調和であること、をつらく感じてしまうからものすごく嫌う傾向にあります。
それだったら、みんなが休めればいいのに。と思う(もちろん、負担に感じることなく仕事したい!という人はしたらいいと思いますよ。ただ現状の現実、そういうふうにはなっていなくて、「お店を営業しなければならない」という社会に合わせて「本当はお休みで家族と過ごしたいけれどその日のシフトに入らなくちゃ」みたいな人が多いように感じるんだよね)

 

それぞれが大切にしたいものや大切にしたいことを大切にしたうえで、
成り立つ全体の形、というものを運営してゆけばいいんじゃないかな。

多民族多宗教の国では、それぞれ大切にしたい日が異なるから365日営業が可能だけれども、
みんなが文化や思想や宗教がわりと共通している国では、みんな同じ日に休みたいのだから、休みはみんな休み、全体が365日当たり前に営業しなくていい、ということにしたらいいじゃん。

それを、
「こういう全体像であるべきだ」という形に合わせて、個を変えようとするから人間に負担がかかる。
逆だよ。
「こういう個である」の集合でできる全体を運営してゆけばいい。個を変えようとしない。

そのためには、個がそれぞれ、
「わたしはこういう考えで、これを大切にしています」ということを明確にしている必要がある。
そうでないと –隣の人がどういう考えでいるか、何を大切にしたいのかがわからないと– 、相手のことをどう理解していいのかわからないし、どう接したら良いのかわからないもの。
わからないから、全体としてもどうすすんでいいのかが話からなくなってしまう。

 

「他人にあわせる」のが調和で良いことだと教え込まれてきたから、
みんながみんな、自分の輪郭がはっきりしないままで、「どうぞどうぞ」としてしまう。
そんな、はっきりしない個のまま集まった全体は、なんだかはっきりしないものになってしまう。
はっきりしない全体だとすすまないから、「なんとなく良さそうな」全体の形を作ってそれに個を当てはめようとするんだけど、それだと苦しいよね、っていう話。それが、上記に書いた、日本のお正月休みの例え話ね。

 

だから、
自分の形を失ったままで他人に合わせる、のが調和なのではないのですよ。

自分の形をはっきりしたうえで、自分とは異なる相手の形を理解する、その集まりで形成される全体を動かしてゆく、それが調和です。

 

全体の、世界の調和のためにも、そして自分自身に負担がなくいられるためにも、
まずは、個としての自分の形(考えや思想や大切にしたいことや文化)を明確にしておくこと、そして自分で自分のそれを理解しておくこと、が大切です。

自分自身のまま堂々と存在しよう。

 

 

 

前にも似た話を書いていました。考えていることってあまり変わらないものですね。笑
→★インドの居心地の良さ、からのミラクル

 

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んで良いこと!腑に落ちた!ミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験
循環起こして魅せましょう♡

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