固定概念の作り方

このところ、
「3月からスタジオクラスは始まりますか?」
「3月のいつから再開ですか?」
というお問い合わせをよくいただきます。

 

まず、お待ちいただいていることにとても感謝。
待っていてくれる人がいる、というのはうれしいです。ありがとう!
だから、その点については心底感謝しているし本当に嬉しいと思っています。ありがとうありがとう。

 

一方で、
「3月からレギュラークラスを再開します」
って誰が言ったっけ?とも思ってます。

「1月2月はおやすみします」というお知らせは確かに出したんだけど、
おやすみに入る前の12月のクラスでのときに、
「その後のことはまた連絡しまーす」
とお伝えしたの。

だから、「やる」とも「やらない」とも言っていません。
実際に12月の段階で、今後がどうなるのかなんて、
自分でもわかっていなかったし何も決められなかったから、
「やる」も「やらない」も言えなかったんだよね。

 

普段から【satyaサティア–正直であること、うそをつかないこと】を実践してみたくて、なるべくそうしてるから、
「やる」って決まっていないことを、「やります」とは言えないもの。

 

なんだけど、
「1月2月は休みます」
と聞くと、受け取った側は「3月からまた再開するんだ」と感じるんだよね。
この心理もわかる。

そしてこれが固定概念。
しかも、集団制固定概念、だと思う(言葉はいま作った!笑)。
集団制、というのは、
「国や文化や慣習によって作られる土台のうえで、複数人があたりまえにそう思う」ということ。

 

これがもしインドだったら。
「1月2月はやすむ」という張り紙やお知らせがあっても、
「3月からまた再開する」なんて思えないもの。当たり前にそんなこと思えない。
このまま無くなるのかもねー、とか、いつからやるかなんてわかんないよね、としか思えない。
電車が数時間も当たり前に遅延するあの国では、
2ヶ月後の予定なんて誰もアテにしていないし、アテにできないもの。
数時間後の電車すらアテにならないのに!笑

 

しかし日本だと、
予定通りにすすむことが当然で、
一度始めたことは続けるべきものだと考えている人が多くて、
勤勉が良し!と信じられているから、長くおやすみが続く、なんてことはありえない、と当たり前に考える人が多いのよね。

 

だから、
「1月2月おやすみ」ということは、イコール、「3月からまた始まる」ということである。
と当たり前に考えるの。

こうしてできるのが固定概念、というやつです。

 

で、話を受け取る側にこの固定概念があると、
「3月からまた始まる」のが当たり前だ、という空気が生まれて、
「いつから始まりますか?」という問い合わせが起きて、
その問い合わせを受けた側は、「おやすみ宣言は明けたし、また3月から定期的にクラスをやらなくちゃ。再開しなくちゃ」と感じるわけ。これまた固定概念ね。

 

両者のベースに共通した固定概念がある。

・物事はわりと予定通りにすすむものである
・一度始めたことは続けるべきものだ
・勤勉が良し!
・長くおやすみをとることは現実的でない

こういう共通した固定概念。
それによって、両者それぞれ、
「3月からまた再開しますよね?」と当たり前に期待をするし、
「3月からまた再開しなくちゃ」と当たり前に動き出そうとする。

双方がベースにある共通した固定概念を共有しつつ、
それに基づいた言動を交わし合って、
固定概念はより強固なものになってゆくのです。

 

しかしこの固定概念というものは、ときに、
「その人自身の本心」とは異なるのです。

固定概念、当たり前とされていることではこれが正しいのだけれど、
自分の気持ちは、違う方へ向いている。正しいとされている、多くの人が当たり前と思っている、そういうことを良しと思えない。楽しいと感じられない…

そうして人は悩んだり苦しんだりしてゆく。笑

 

「自分の考えはおかしいのかな?」「みんなと同じようにできない自分がおかしい、悪いのかな?」と悩む人もいるし、
そこまではっきり気づいていない段階だと、自分とまわりのズレに気づいていないのだけれど、「なんだかおもしろくない」「なんかスッキリしない」というモヤモヤを抱えたまま日常生活を送っている、なんてことも多いでしょう?

 

それってつまり、
「固定概念」と「自分の本心」がズレているがゆえに起きている。ただそれだけなんだよね。

 

だから、
固定概念が無ければ無いほど柔軟でいられて、
柔軟でいればいるほど悩みや苦しみは減ってゆく。
だって、目の前に起きる出来事に自分の本心で対応してゆけばいいだけ、になるもの。
本心はこう、だけれども、普通は(正しいとされていることは)こっち、だからどうしよう…という板挟みの苦しさ、身動きの取れなさ、は無くなるもの。
目の前の出来事に対応する工夫や努力という「パワーを使うこと」はあるけれども、
板挟みの苦しさという精神的な消耗は無くなるの。

 

というわけで、
固定概念という枠をどんどん取り外していったらいい。
そうしたらもっとみんな、それぞれの人がそれぞれの人らしく、その人自身でいられるようになる。
そういう世界はうまくしかいかないし、文句や争いが起きなくて平和なはずだもの。

 

で、固定概念が強固になる仕組みを上記で説明したでしょう?
作り方がわかった、強固になる仕組みがわかった、
ということは、その逆のことをすれば、
固定概念を緩めることができる、枠を壊せる、そもそも新しい固定概念を生まなくてすむ。

何かの作り方がわかったら、
その逆をすれば、
それを壊すことができる。

 

というわけで、3月からのスタジオクラスは、
これまでどおりのスケジュールや運営も方法でレギュラークラスが始まる!
なんてことはないからね。「当たり前にこれまでと同様に」はやりませんよ。

とか書くと、
「え?クラスが無くなっちゃうの?」
とか思うでしょ?心配するでしょ?

誰が「クラスやめます」って言ったよ?って話なんですよ。誰もそんなこと言っていないのに、
「これまでと同様に」はやらないよ、というフレーズを聞いただけで、「無くなる」と考えてしまう、その自分の思考に惑わされて右往左往するのはもうやめよう。

 

固定概念や思い込みを無くして、
ちゃんと、そのままを受け取ろう。

「当たり前にこれまでと同様に」はやりません。

ですから。

運営の方法やシステムやスケジュールをすこし変更しつつ、
ヨガクラス自体は「全く無くなる」ということはなく続けてゆこうと思っています。
だから、クラスについては、「無くならない」けれども「変わってゆく」が最も適切です。

 

基本的に、
「各方面に無理がない状態で物事をすすめる」
という、【ahimsaアヒムサ–自分も相手もを傷つけない】と【satyaサティア–ウソがないこと、正直であること】という、ヨガの超基礎教えをベースに物事を組み立ててゆく姿勢です。

だってわたしはヨガ教師で開催しているのはヨガクラスだもん。もっとも基礎のヨガの教えは実践したいのです。

 

日本の「当たり前のやり方」とは違うでしょうけれど。
いいのいいの。

固定概念という、無駄にあるその枠を、
崩してゆきますよ!

 

クラスの予定やクラスの有無という出来事を通して、
思考や感情や意識に働きかける、作用をうむのも、
ヨガの先生の仕事なの。
いつもさりげなくこういうことをやっているのだけれど、
今日は仕組みを説明したよ!

 

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んで良いこと!腑に落ちた!ミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験
循環起こして魅せましょう♡

 

 

 

 

 

 

 

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