幸せと豊かさの違い

幸せであること

豊かであること

 

ほとんど同じようにも感じるし、
違うようにも感じるし、
豊かだったら幸せなのか?
幸せと豊かさはイコールなのか?
を考える機会がやってきた。

 

 

このところ、例の幸せのパーツを探すゲームをおもしろがってやっていたら、
「幸せだなぁ」という気分を感じられることが増えて、それを表現すると当然「幸せ」という言葉として口から出るようになっていた。
それでもじゅうぶん素晴らしいことだけれど、
「幸せを探す」に慣れて、「幸せだなぁ」を感じることに慣れて、それをたびたび口にしていたら、
「幸せであることはデフォルト」になってしまったんですよね。
(なってしまう、とか言ってますけど、幸せな悩みと段階ですよ笑)

ここで、「幸せなんだからもうじゅうぶん。これ以上は望まない」なんてところでおさまっていればいい、ということではありません。

 

YOGAの教えの中で、
“santosha–サントーシャ–足るを知る”
というものがあります。これを誤解すると、
「これ以上の幸せは望んではいけない…」「いまあるものでじゅうぶんです」
という、無理矢理望みをおさえようとする思想&謎の清貧崇拝になるのだけれど、
この santosha–サントーシャ という教えは、そんなことを言っているのではありません。

 

というかそもそも、「もっと幸せになりたい」「こうありたい」という自分の望みが発生しているのに、それを無かったことにして無理に抑えることは、
satya–サティア–ウソをつかない
の教えに反する。という矛盾が起きる。

YOGAの教えはこれを守ったらこれは破ってもいい、ということでは当然なくて、
すべて両立できるものであるという考えですから、satya–サティアもsantosha–サントーシャも両方守れる方法を探すのです。それがYOGAの実践です(だから日常的修行といえる)。

 

ということは、
いま感じている幸せは幸せだなぁ、うれしいなぁ、ありがたいなぁ。と感じてじゅうぶん感謝をしながら、
「もっとこうありたい」というさらなる望みや欲も認めて叶えてゆけばいい。叶えていい。
で、このときに「次のこれも叶わないとわたしは困ってしまう、不幸せだ」なんてことは思わずに、
「いまもじゅうぶん幸せでうれしいけれど、さらにこうなったらいいなぁ…♡でもそれが叶わなくても、じゅうぶんに幸せだけどね、だっていまこんな感じで幸せだし。だけど、さらにこうなったらもっともっと幸せだなぁ」
と考えることができたら、 satya–サティア も santosha–サントーシャ も両立できます。
さらに!を望みながらも、現在の幸せも感じられる。それが、ウソもつかず正直でありながら、足るも知れているということ。

 

そんなこんなで、
幸せを探すゲームを続けるうちに「幸せ」には慣れてきたので、
次の段階にきたようです。

 

わたしの中で、「幸せである」の次の段階は、「豊かである」でした。
自分でも気が付いていなかったけれども、「幸せでありたいなぁ」という望みが叶ったら、次に「豊かでありたい」という望みが出てきたの。
自分の中から出てきたことだもの。叶えましょう。

 

 

しかし、「幸せ」と「豊かさ」はそもそも違うものなのだろうか?
「幸せだなぁ」と感じつつも、「豊かでありたい」と願うということは、
実は幸せを感じきれていないのではないか?…そんなことを疑い始めたので考えました。

 

 

「幸せ」というのはどのような状況からでも探し出せるものです。それはこのところ幸せのパーツを探すゲームをやっているうちにわかってきました。どんな状況、環境にでも幸せのパーツは見つけられるもの。
だから、「幸せ」は主に「精神的なもの」なんじゃないかな?
これがあるから幸せ、ないから不幸せ、という定義に全くおさまらなくて、
ないけど幸せ、な場合も、あるけど不幸せ、な場合もあるのが「幸せ」という概念。
ということは、「幸せ」は物質と精神がまったくイコールで繋がっていない。だから主として「精神的なもの」といえる。

 

一方の「豊かさ」というのは、「幸せ」の概念と比べると、
「幸せ」よりももう一歩「物質にも関わりのある概念」なのではないかと思うのです。

 

例えば、ベンツのゲレンデ(わたしが欲しい車ですけれども笑)を持ってる場合と持っていない場合を比較してみましょう。

ゲレンデを持っていても持っていなくても「幸せ」という概念には影響がありません。持っているから幸せ/持っていないから不幸せ、なんてことはないし、持っているから不幸せな気分が起きないなんてこともない。持っているから幸せである、とも言い切れない。車に乗らない人が持っていても、さほど幸せではないでしょう、むしろ維持費がかかって困ってしまうことすらある。

けれども、「豊かさ」という概念においては、
持っているから豊かである/持っていないから豊かではない、ということはないとしても、持っているけれども豊かではない、とは言い切れないんじゃないかな。ゲレンデを持っている人と持っていない人の「物質的な側面」だけを見たら、
持っている人の方が豊かでしょう(物質的には、ですよ)。車に乗らない人が持っていたら「ゲレンデを売って、そのお金で好きなものを買うことが出来る」かもしれない。となるとやっぱり、「ゲレンデは持っている方が豊か」であるということになる。
(それを幸せと感じるかどうかはまた別の話)

もちろん、物質的な豊かさと精神的な豊かさというのはイコールでなく、それぞれ別の話だけれど、
「豊かさ」というのは「物質的な側面にも関わる」概念なのです。

「幸せ」というのは、ほとんど精神的な側面の話だから、精神的な幸せ、ということはよくわかるけれど、
物質的な幸せというのはピンとこないもの。
物質的な幸せと表現できる内容は、つまり、物質的な豊かさとおなじことのような気もする。

 

 

 

わたしのなかに「幸せでありたい」の次段階として「豊かでありたい」が出現したということは、
精神だけではなくて物質ももっと拡大してゆく段階がきたのではないかな。

これまでわりと「精神的な」のいえる部分、心の話やエネルギーや扱い方に目が向いていて、物質的な話には興味が湧かないこともあったけれど、
そろそろ、物質的なことも扱える段階が来たんじゃないかな。
…そんな気がしています。

だって、精神的な側面が確立しないうちに、物質的な拡大が起きると、
物質に翻弄されてしまうでしょう。目に見えるものの方がわかりやすいから、わかりやすい面に右往左往してしまう。そうならないために、物質をしっかり扱えるように、
さきに精神的な側面を確立しておく必要があるのではないかと思います。その土台の準備をととのえ終えると、次の段階にすすんでゆくのでしょう。

 

なにがそうさせているのかはわからないけれど。
大いなる存在の何か、というか、宇宙というか、神様というか。
なんでもいいけれど、何かしらのそういう存在が、ちゃんと段階を踏んですすませてくれるのだと感じています。

 

こうして人は進化してゆくんだね。段階的に。

 

 

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