祈るという行為

昨日はすっかりノートルダムから派生する様々な出来事で一日を終えてしまったけれども、
一夜たってwebにアップされ始めた、「鎮火後の大聖堂の内部」の写真を見て驚いた。

 

瓦礫(と言っていいのかな)や燃えあとが広がる中で、
ゴールドの十字架やまわりの神像は、まるで何事もなかったかのようにそこに遺っている。
というかむしろ、瓦礫のようなものが広がるその暗い空間のなかで、十字架に至っては光を放っているようにさえ見える。

この写真を見たときに “畏怖” というものが、初めてこんなにくっきりとした感覚としてわかった。

そして「神様はやっぱりいるんだ」と確信した。
だって、あのなかで神像や十字架や、みんなが気にしていた例のステンドグラスが、あのように遺るなんて…神様の仕業としか思えないよ。

人智を超えた力や存在というものは確実にこの世に存在している。
ただそれは目に見える形では存在していないから、
目に見えない=無い、という扱いにされやすいだけ。けれども、
その存在そのものが目に見えなかったとしても、その、目に見えない力が作用して、現実世界の目に見えるものに結果を現すことはあるんだよ。

人間の内部だっておなじこと。
エネルギーや気(目に見えない)が作用して、物質的な身体(目に見える)が動いたり結果を出したりするじゃないか。それとおなじ。

 

ということは、
神様という存在は一般的には “目には見えない” ことが多いけれど、
(「一般的には」と言うのにも意味があって、中にはそれが目に見える人もいるから。感覚が微細になったりその能力が研ぎ澄まされたら見えるようにもなるだろうから)、
目に見えない力やエネルギーとしては存在している。確実に。

じゃあその「目に見えない力やエネルギー」はなぜそこに?どうやってそこに存在しているのだろう?と考えていたら、うっかり答えが出てしまった。

 

それは人々が「祈る」という行為を通してそこに生じさせることができるものなのではないだろうか。
「祈る」という行為を通して、人間から祈りや気持ちのエネルギーが発生する。複数の人がそうしたり、一人が何度も祈ることで、そのエネルギーが溜まったり大きくなったりする。
それが教会や寺社といった場で行われると、その場のエネルギーが大きくなったり溜まったりするから、そこが神聖な場所=神様のいる場所、となるし、
イエスキリストや龍や八幡神といった “その対象” に向けて祈りがなされると、その対象のエネルギーが大きくなったり溜まったりして、対象とされたそれら=神様、ということになるんじゃないかな。

つまり、人々の気持ちや祈りが向けられた対象やその場が、向けられたエネルギーを溜めた “エネルギー体” となったものが、神様といわれるそれ、ということ。

 

 

これが本当かどうかはわからないけれど、
わたしの感覚的にはこのロジックがものすごくぴったりハマってしまった。

これまで通ってきた寺社仏閣や教会のこと、自分の身に起きた不思議な話、なぜだか自分が使えるミラクルな力というものが、この考え方だと説明がつくもの。

 

ということは、
祈ったり気持ちを向けたり、ということさえすれば、
誰しもが、そしてどの場所でも、神様や神聖な場になりうるのではないかな。

誰しもが神様になれる、というと不謹慎に聞こえたり冒涜しているような印象を与えるかもしれないけれど、
そういうつもりなのではなくて、
誰しもがそういう神業のような、目に見えない力を作用させて、目に見える現実に結果を出すことができる、ということ。

 

祈る気持ちを向けられた対象が、祈った人の気持ちやエネルギーを受けてそれらを溜めた “エネルギー体” として神業といわれるような力を使うことができる。
そのような “エネルギー体” のことをわたしたちは神様と呼んでいる、というだけ。

 

本当に神様という存在になれるかどうか、その呼称がふさわしいかどうか、は今は問題ではありません。

 

ただ、誰しもがそういう力を使えるようになる可能性がある、ということがポイントです。
どうやったらそんな力が使えるようになるのか?というと、人々の気持ちや祈りを受け取ってそれをエネルギーとして使えばいい、というだけ。

「誰がわたしのために祈ってくれるの?誰がわたしに気持ちを向けてくれるの?」という疑問もあるかもしれません。たしかに、誰かに「わたしのために祈ってください」なんてお願いするのは難しそう。

だったらまず、自分でやったらいい。自分で自分に祈りを向けたらいいじゃない。
自分発信の祈りが、他人や第三者や自分以外の場所にしか効かないなんて言っていないもの。自分にも効く。

自分で自分の幸せでも健康でもなんでも、祈ってあげたらいい。
大事なのはこの次で、自分がしたその祈りを、自分でちゃんと受け取るのです。こことても大事。
自分の幸せを祈ったなら、「わたしの幸せを祈ってくれている人がいる(自分ですけど、いいのよ)。祈られている対象である」ことを自覚すること。

祈った人の気持ちやエネルギーを受けてそれらを溜めた“エネルギー体”として神業といわれるような力を使えるようになるのであれば、
「受ける」「溜める」の作業がどうみても大切だもの。
だから「祈る気持ちを向けられた対象である」ことを自覚して、受けて、溜める。

 

まずは自分で自分に祈ってもオッケーとしたけれど、
それに慣れてきたとき、つまり祈りのエネルギーを受ける、溜めるに慣れてきたときには、よくよくまわりを見たら「わたしの幸せや健康を祈ってくれている人」は普通にいるということに気がつくでしょう。
それは家族かもしれないし、友達かもしれないし、応援してくれている誰かかもしれないけれど、
肩書きや関係性はなんだったとしても誰かしら、気持ちをこちらに向けてくれている人がいる。ただ、それmでは気がつかなかっただけ。
これまで気付かずに受け流してた誰かが向けてくれている気持ち、を自覚して受ける、溜める、ことで、
使える力は大きくなってゆくんじゃないかな。

 

身体や状況が良くなってほしい人がいるならば、その人のために、その人に向けて祈ればいい。
ただそのときに、祈りを受けた側の人がちゃんとキャッチする必要があるんだ。
人は誰しも、祈る側にもなれるし祈りを受ける側にもなれる。ただ、「受ける側になれる」の自覚がないと、
せっかくの誰かの祈りのエネルギーを受け流すことになってしまう。

だから、常に “受ける” の自覚を持って、誰かからの気持ちをちゃんと受け取って、それを溜めて自分の力として発揮しよう。
また、大切な誰かのために、祈ろう。
そして、一番身近で一番簡単なこと、自分で自分のために、幸せや望みを祈ろう。

 

そうすることで、
誰しもが神様になれる。自分の肉体、また自分の存在そのものが神域となる。

 

 

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