人間関係は濃度

とってもうれしいことがあった。

詳しくはアメブロに書いたのだけれど、
→★すごくうれしいことがあった

要点をまとめると、

 

最近気に入っていたものすごくローカルなお店があって、
何度が通っていたら顔を覚えられちゃって、
「はい、これ」とお持ち帰りの軽食をいただいて来た。

という話です。

この話のなにがうれしかったかというと、まず、
このお店がものすごくローカルなところだというところ。
わたしの他に外国人は見たことがない(気がする)し、
店のおじちゃんは英語も通じません。
だからいつも「詳しく話を」するわけではないのに、
顔とわたしが好きなメニューを覚えてくれています。
そんなところに現れる「謎の外国人」に対して、こんなにも親切にしてくれることがうれしいのです。

アメブロにも書いたけれど、現在ムスリムのみなさんはラマダン(断食期間)中。
だから、この日いただいた軽食もラマダン期間中の特別なそれ、だったのだけれど、
それを異教徒の外国人に「食べてみて。どうぞ」と快くおすそ分けしてくれることも、またうれしいポイントなんです。

なんというか、コミュニティに完全に同化させてもらったわけではないけれども、
「自分とは違うものでも排除はしない感じ」がとてもうれしい。

 

 

言葉も通じていないのに、このようなコミュニケーションと関係性がつくれることを経験して、

「人と人との関係性」

について改めて気がついたことがあります。

 

 

わたしはずっと、
肩書きや関係性によって、人間同士の関係を築いたり縛られたりすることはない。
肩書きや関係性と、人間同士の信頼度は別。
と考えているし、実際にそのようなお話をよくします。

 

恋人だから、
家族だから、
友達だから、
こういう出会い方(運命の出会いのような)をしたから、
長い年月の付き合いだから。

このような理由によって、信頼度が高まったり低まったりはしないし、
このような理由があるからといって、「こうしなければならない」「こう付き合わなければならない」「一緒にこれをしなければならない」とお互いを縛りあうことはできません。

 

目の前の相手を、信頼したいと思えるかどうか。
信頼できると感じられるかどうか。
一緒にいたいと思えるかどうか。
この人となにをしたいか、あるいはしたくないか。

ただただそのような、シンプルな選択が続いてゆくだけです。
その選択の際に、上記の理由を持ち出して、
「〜だから、こうしなければならない」と考えることはしなくていいし、相手にそれを強要することもすべきではありません。それは「相手をコントロールする」こと以外の何物でもないわけですから。だからしなくていい。しちゃダメ。

 

そうなると、
自分がひととどのような人間関係を築けるか?
がものすごく大切になります。

放っておいても関係性が築けるわけではないから、

どのような態度で相手と接するか、
どのような発言をするか、
日々自分がどのような言動をとって生きているか、

が重要なポイントとなって、それによって、自分と他者との関係性が決まってきます。
日々の言動が自分そのものの表現となってしまう。

 

だから、言動のひとつひとつを正直に誠意をもってしないといけないよね。

だってもし、自分の本意とは異なる言動をしたら、その言動から「この人はこういう人だ」と解釈した相手が、本意とは間違った解釈のままこちらのことを「こういう人なんですね」と思ったまま関係性がすすんでしまうから。

例えば、ベジタリアンの人がいたとしましょう。
お肉は食べたくない、食べない、という生活を送っているのに、ある会食の場でその場の空気を読んで、
「ベジタリアンなんです」とは言わずに、やりすごしたとしましょう。
そうしたらその場に居合わせた人は、その人がベジタリアンであるとはわからないから、その次の会食の場が焼肉屋さんに設定されるかもしれません。焼肉の回をうまくやりすごしたとしても、その次回が生ハムとワインの店、に設定されるかもしれません。
誤解釈のまま関係性がすすんでゆくとこういうことも起きうる。困るでしょう?

また別の例。Aさんと喧嘩をして、その件をBさんに愚痴ったとします(ひとに対して腹をたてることも愚痴を言うことも悪い、とは言っていませんよ。このポイントを注意して読んでね)。
「こんなことがあってね。Aさんのことがムカついている」というような、ありがちな愚痴を。
そんな話をしていた直後、Bさんと一緒にいるときにAさんが現れました。その場で、Aさんと何事もなかったかのように、腹を立ててる風な様子も一切見せずに「お会いできてうれしいです」なんて言ったとしましょう。
それを見ていたBさんはどう思うかな?
わたしがBさんの立場だったら「この人、この前言ってたことと今の態度が違いすぎるわ。良い顔をしている裏で何を思っているかわからない人だな。こわいなぁ」と、その人に対する信頼がもてなくなってしまいます。

腹をたてるから悪い、わけじゃない。怒るから怖い人、ではない。
ただ、あんなに怒って愚痴っていたのに、本人が現れた途端に態度がコロっと変わる。どっちが本意かわからない。だから信じられないなぁ。と思うという話です。

 

そして、わたしはこのように考える人間だけれども、
「いやいや、人間関係を円滑にすすめるためには、表と裏を使い分ける必要があるでしょう。それは信じられない、に値することではないでしょう」という考えの人もいるでしょう。

もちろんその考えはそれでいいのです。
それは単なる「違い」なだけですから、いいのです。
ただ、「違う考えを持つ人間である」という事実をお互い表現したうえで、
理解しあって付き合ってゆくのか、考えが違うからある程度の距離をとった付き合いをしてゆきたいのか、は、それはまたそれぞれが選べばいいだけの話なんです。

 

こうして「自分はこういう人間である。こういうタイプである」を表現して生きてゆくと当然、
「それは好き」「それは嫌い」「わたしと合いそう」「合わなさそう」「信頼できる」「信頼できない」などといった、
「相手からの評価」を受け取ることになります。
そしてたいていの人は、「好かれたいけれど嫌われたくない」と思うでしょう。だから、「嫌われる可能性があることはしたくない」となって、自分そのものの表現をしなくなります。

 

そして自分そのものの表現をしなくなった先で、
また「相手からの評価」を受け取りたくない。そういう評価の受け取りあったうえでの人間関係をつくったり、関係性が変わってゆくのが怖いから、

恋人だから、
家族だから、
友達だから、
こういう出会い方(運命の出会いのような)をしたから、
長い年月の付き合いだから。

という、一見「正当な理由」に見えるそれを持ち出して、
お互いを縛ろうとしたり、縛った関係のなかで安心感を得ようとするのです。

 

…そんなの、怠慢だよ。

 

自分の言動に責任を持ちたくないから、
自分そのままを表現してどう思われるかが怖いから、
嫌われたくないから、
人が離れるのが怖いから、

だから、「わたしたちこういう関係だから、ね!」で関係性を担保しようとしているだけでしょう。

自分の言動を正直にやらない怠慢ですよ。

 

そして、こういう肩書きや関係性、年月というものだけを頼った人間関係のうえでは当然、
わたしが体験したような、ローカルの定食屋さんから軽食をいただく、なんてことは起き得ないのです。
だってそれはわたしが、

長年の友人だから、でも、
ヨガの先生をしているから、でも、
もちろん家族でもないし、
同じ宗教だから、
同じ民族だから、

そのような理由でいただいたことではないから。外側の理由によって、起きた出来事ではない。
また、もしも普段からそのお店で、
悪態をついていたり、美味しくなさそうな態度で食事をしていたら、このような親切は受けなかったでしょう。

わたしがいつも、美味しそうに食事をしていて(いや、本当にここのラクサにハマってるんです。まじで好きなの)、懲りずに通ってくる、という姿を相手は見ているから、
「あの外国人はうちを気に入ってくれてるんだな」と見てとれるから、
今回のような親切をしてくれたのでしょう。

 

ちなみに、懲りずに通っていると言っているけれど、
本当に最近ハマり始めただけだから、行ったのは過去4回くらいなんです。まだ、そんな浅いおつきあい。
けれども、2週間ほどの間に4回も行っているから、覚えてもらったのだと思います。

ここでも説明がつくよね。
人間関係に影響を与えるのは、「回数」ではなくて「その濃度」なのだと。

 

人と人との関係は誰しも、基本的にはゼロスタートというか、中立のところから始まるもの。
好きでもない嫌いでもない、合うわけでも合わないわけでもない、っていうかよく知らない、
そういうゼロというか真ん中、というところから始まります。

それが、会った時の第一印象で、
例えば好みの容姿だったら、「好き」「合う」「信頼できる」という濃度がすこし濃くなります。その次に会った時に、笑顔が素敵だったりやさしい言葉をかけてくれたら、また「好き」「合う」「信頼できる」という濃度が濃くなるでしょう。

3回目に会った時に、こちらの好みドンピシャのプレゼントをくれたら、さらに「好き」「合う」「信頼できる」の濃度が大幅に濃くなるでしょう。
もし3回目に会った時に、プレゼントがなかったら、好みのプレゼントをくれる場合よりは「好き」「合う」「信頼できる」の濃度が濃くならないかもしれません。

おなじ「3回目」でも、そのときの中身によって、濃度の濃さが変わるのです。
「回数」や「付き合いの年月」によって関係性の濃さがはかれない、決まらない、というのはこういうことです。
また、もし3回目に会おうとした時に待ち合わせをすっぽかされたら、「好き」「合う」「信頼できる」の濃度が一気に薄まるかもしれません。
そのすっぽかしが、
「忘れてた、ごめん」というメールでの連絡なのか、
「寝坊しちゃった。本当にごめん」という電話なのか、
連絡すらないのか、
それによってもまた、「好き」「合う」「信頼できる」の濃度の薄まり方が変わるでしょう。
3回目の約束ですっぽかされた後に、アフターフォローが何もない場合と、翌日に「ごめんね」とお花が贈らてくる場合では、またそこからの濃度が変わってくるでしょう。

 

「好き」「合う」「信頼できる」の濃度が濃くなることも、
せっかく濃い濃度のそれができたところにうっかり、「好きじゃない」「嫌い」「信頼できない」の成分を追加して、「好き」「合う」「信頼できる」の濃度を薄めてしまうこともあるでしょう。

 

人間関係というのはそういうものなのです。

 

そういうものですから、

恋人だから、
家族だから、
友達だから、
こういう出会い方(運命の出会いのような)をしたから、
長い年月の付き合いだから。

という理由によって、濃度を保っておく、なんてことはできないのです。

どんなにおなじグラスを使おうと、その中身のカクテルは薄くも作れるし濃くも作れるんです。そういうことです。
何年もおなじグラスを使っているから、いつもとおなじグラスだから、このグラスだから、
どのような作り方をしても中身のカクテルは同じ味を保ち続ける、なんてことはないでしょう。そういうことです。

 

 

だから、関係を深めてゆきたい、大切にしたい、と思う相手とは、「好き」「合う」「信頼できる」の濃度を濃くするような言動を重ねてゆくしかありません。急接近したいなら、急に濃度が濃くできる方法を探して実践すればいいし、じわじわと濃度を濃くしてゆくこともできます。
濃い濃度であった関係性をうっかり薄めるような言動をしてしまった場合には、また濃くなるような工夫と言動を重ねればいいし、「濃くする努力」をすることなく、「このグラスに入っているから放っておいても勝手にまた元の濃度になるでしょう」なんてことはありえません。
いつのまにか濃くなりすぎてしまった濃度を「あぁこれは濃すぎる」と感じたら、薄める工夫をすれば良いだけです。

 

それを、濃くすることも薄めることも、すべては自分の言動次第です。
だから自分の言動によく注意を払うことが大切です。そしてその言動の工夫によって、
相手との関係性、人間関係を変えることができるのです。また変わってしまうのです。

 

あわせて、グラス頼りでは中身の濃度は変わらない、ということも肝に銘じておきましょう。

 

 

 

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