正解のない世界

っていうシャ乱Qの曲があるんですけど、知ってる人います?笑
(わたくしシャ乱Qファンです。もちろん、ファンクラブにもずっと入っていました。ライブツアーもほとんど行ってます)

で、今日はすごく、
「世界基準で見たら、正解も不正解も、正しいことも間違っていることもないな」と思うことがあって、
それについて考察していたら、
この、シャ乱Qのタイトルが出てきたんです。

だから、内容とシャ乱Qは関係ありません。言いたかっただけです。

あちこちで話している通り、
いま、マレー語の勉強をしていてクラスに通っています。

で、このクラスが、他民族、多国籍のクラスメイトが集まりなんです。
ざっくり挙げると、

日本人
中国人
韓国人
タイ人
フランス人
ドイツ人
スコットランド人
ペルー人
シリア人

あと、自分のことを「ユーラシアンです」と、自己紹介する人もいます。
ユーラシア大陸の人、ということですね。

これまで旅行へ出かける中で、
様々な国の人と交流をしてきたけれど、
「様々な国の人と一緒にひとつのことに取り組む」のは、初めてのこと。

例えば、どこかへ旅行へ行って、
その現地の人と話したり、
同じ宿に泊まっている外国人のツーリストと話をすることはあったけれど、
それは、「その場を」「わたしと相手という2者、あるいは3者で」過ごすだけであって、
ここまでバラバラなメンバーで「ひとつのことに取り組む」なんて経験はしたことがなかったのです。

しかし、「共通したひとつのことに取り組む」からこそ、
それぞれの違いや特徴が、
それはそれは顕著に見えるんです。

それがおもしろすぎて、
今日のクラスでは、終始笑っていたと思う、わたし。
なんかもう、笑っちゃうんですよね。

あーこれも有りか!と。

例えば、

絶対に遅刻しないでくる人、授業が始まる15分前には必ずきている人もいれば、
ほぼ毎回遅刻してくる人もいます。
その遅刻の時間が、3分とか5分とか。ギリギリ間に合わないの、毎回。笑
「時間に遅れてはいけない」を幼少期から教育されてきた日本人(わたし)からしたら、「あと、ほんのすこーしだけ早く出発したら間に合うよー。頑張れ!」という気持ちになるんですけど、
なぜだかわからないですけど、「毎回ギリギリ間に合わない」んですよね。笑

授業中にはものすごく消極的でほとんど質問をしないのに、授業の前後に先生を捕まえて質問をする人もいます。
一方で、授業中に手を上げてガンガン質問をする人もいます。
しかも、その質問の内容が「いま勉強しているそのポイント」だけでなく、「そのポイントから派生して「ではこの場合はどうなんですか?」という、いま与えられている課題から自分で想像/創造したことまで質問してしまいます。
「自分の意見で授業のペースを乱したら悪い」という、日本人だったら気にしてしまいそうな遠慮が皆無。(ディスってないですよ。むしろわたしは、このストレートさがすごく気持ちよくて楽しい!)

マフィンを食べながらクラスを受けている人もいるし、コーヒーを飲みながらクラスを受けている人もいます。

電話がかかってきた、トイレに行きたい、などの理由でふらりと出て行く人もいます。

この前は、授業中に先生が眠ってしまっていました。笑
(さすがに微笑んでしまった!笑)
授業中といっても、「ではそれぞれ課題をしてください。終わったら発表しましょう」という、生徒に課題をやらせている間に、
先生が机に突っ伏して眠っていたんです。笑
で、少しして目覚めて
「ごめんごめん、痛み止めの薬を飲んだらどうしても眠たくて…」と言っていました。笑

そして、その先生の様子を見て、
「先生が授業中に眠るなんてありえない…!」と、めちゃくちゃ怒っていて、その怒りを態度に表す人もいるし、
おなじように怒っているけれども、その場では態度に表さず、のちの休憩の時に「あれはさすがにダメだよね」と陰で言う人もいるし、
ぜーんぜん、もう全く、1ミリも気にしない人もいます。

わたしは「え。先生痛み止めって、どうしたんですか?」と、そこに興味があって「大丈夫?どうしたのですか?」と聞いてしまったクチです。「薬の副作用はキツいですよねーなんならもうちょい寝ててくださいよ、課題終わったら起こしますよ」くらいの気持ちです。

このような、バラバラなことばかりなんですけど、
「勉強したい語学の授業内容自体は滞りなくすすんでいる」んです。

だからオッケー!

もし先生が授業中の半分以上の時間を眠っていて、生徒が待ちぼうけ。だったらそれは問題ですけれど、
生徒が各自課題をやっている10分ほどの間、眠っていても、まぁ大して問題ないですよね。その10分の間にどうしても質問があるのなら、眠っている先生を起こせばいいし。

誰かが遅刻してきても、早く来ても、
授業はその時間に始まってその時間に終わるし。

もし自分がやむなく遅刻や欠席をしても、
そのぶんのノートをクラスメイトから借りたらいいし。
授業に遅れをとりたくないなら、遅刻や欠席をしなければいいだけだし。

マフィンを食べている人がいても、授業の進行に差し支えはない。

先生の睡眠を許せず、あからさまに怒っている態度の人がいても、
その生徒の機嫌が他のクラスメイトの勉強には影響はないし。

え?どこか問題ある?

なんですよ。
そして、そこに集っている全員の目的である、
「語学を学ぶ」という目的は達成されています。

だから、まぁ問題ないんです。

 

こういう中にいると、

「正しいことも間違っていることもないな」

と感じます。

授業に遅れてはいけない。
授業中に物を食べてはいけない。
例えばこれらのことは、「日本の教育や常識」のなかでは、
「当たり前にいけないこと」とされているでしょう。

しかしこれらのことが「当たり前にダメじゃない」常識の人もいるのです。

だから、どちらが正しいわけでも、どちらが悪いわけでもありません。
そして、いずれにせよ「この語学を学ぶ」という目的はちゃんと達成されちゃうんです。

こういう話をすると、
「いやいや郷に入っては郷に従え、という言葉があるから」と言われます。
たしかに、もしここが日本の教育現場だったとしたら、

遅刻しないこと。
授業中に飲食をしないこと。

が正しいとされるのかもしれません。どんなに「正しさも間違いもない」という主張をしても、「場を乱すことが他の人の迷惑になる。それが学びという目的の達成の邪魔となる」と言われるのであれば、
たしかに、皆の目的を達成する邪魔になることはしない方が良いかもしれません。

しかしそれは、「場を乱すことが目的達成の邪魔になるから」。だから「やらない方がいいこと」なだけであって、
遅刻や飲食それ自体は「良いことでも悪いことでもない」「正しいことでも間違っていることでもない」のです。

そこを混同しないことって、すごく大切だなぁと感じます。

遅刻をしても、飲食をしても、自分の機嫌が良くても悪くても、
場を乱すことはない、そこに集う人たちの共通の目的の邪魔にならない、
のであれば、遅刻も飲食も機嫌も、どうしてたっていいんです。

世界規模で見たら、正解も不正解もないんだなぁとつくづく思います。
正しいことも間違っていることも、ない。

ある人にとって、ある文化の中で、
正しいと「されている」ことも、間違っていると「されている」こともあるけれど、
それは「その人」や「その文化」によって決められた基準であるだけ。

本質的に、正しいことも間違っていることも、ありません。

「どの基準を採用するか」によって、正解や不正解が決まりますし、
その基準すら、自分で選べるのです。

自分で自分の基準を決めよう。
誰か、や、社会、に決められる基準に従う必要はありません。
自分の基準は自分で決める。決められます。

そして、自分で決める自分の基準が、
自分が居るその場の基準とどうしても合わないのであれば、
場を移したらいいんです。

自分で「遅刻はいけないことである」と基準を決めるのであれば、
「遅刻はいけないこと、時間は守るべきこと」とされている場に身を置けばいい。
それを、「遅刻は問題ではありません」とされている場に身を置きながら、遅刻をしてくる人に文句を言うのはナンセンスだよ。そもそも自分が疲れちゃうよ。ということです。

自分の基準と場の基準は不一致である、とイライラやストレスが溜まるね。

そしてまた、これは順番が逆になっても、苦しくなっちゃうよね。
先に「場の基準」があって、「そこに自分を合わせろ」とされるの。これもキツい。
だって、「自分の基準」を「場の基準」に合わせなくちゃならないから。キツイ、つらい。

だから、
「まずは自分の基準(大切にしたいことや自分の中の正しさ、まもりたいこと)」を決めて、そして、
「自分の基準となるべく一致している基準のある場」に身をおく。

これが生きやすい方法なのかもしれません。

あまりにもバラバラなそれぞれの基準、である集合体に所属してみたら、
これまで以上に輪をかけて、ものすごく視野が広がりました。
「まだまだ、不要な遠慮をしてたなぁ。何やっていたんだか!?」と思いました。
そしてすごく気が楽になったんだよ。

ますます意識が自由になった、今日この頃です。

これまでなぜ、授業中におやつを食べてはいけないと思っていたのだろうか…もはや謎!笑

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