ウィルスのエネルギー的側面–tomokoの仮説

どんな物事にも、
物理的な側面とエネルギー的な側面という2つが在るのではないか?

簡単にいうと、目に見える側面と目に見えない側面。


そしてこれまでの物質世界では、
前者が信用に足るもの、理解できるもの、で、
後者は怪しいもの、スピリチュアルぽいもの、
と「イメージ」されてきたんじゃないかな。

しかし、これはやはり「イメージ」に過ぎなくて、

目に見えないけれど、在るものは在る。影響を受けている、とわたしは感じています。

「エネルギー」といってしまうと、それが表すものはものすごく幅が広い。
人間で言ったら、感情もそうだし思考もそう。

肉体は目に見えるから、圧倒的に「物理的な側面」だけれども、
目に見えない感情や思考は「エネルギー的な側面」といえるでしょう?

ヨガの理論を取り入れるなら、さらに、
プラーナ(生命エネルギー)も含まれるでしょう。
オーラも含まれるんじゃないかな。

そして、オーラという言葉が出てきた途端に、「スピリチュアルっぽい。怪しい」というイメージが浮かぶのではないかしら?

感情や思考、というと理解されやすいのに、
オーラ、というと怪しいイメージになる。

…なんでだろう?ね?

どちらも「目に見えないけれど人間に備わっているエネルギー側面」という意味でおなじじゃない?でしょう?

ストレスが原因で病気になった、は理解されるのに、
エネルギーが低下していたから病気になった、と言うと「怪しい!」と思われちゃうよね。

ほんと、不思議。
そしてこれがまさしく「イメージに惑わされている」という状況です。


今日書きたかったのは、そういうことではなくて…!



そういうわけでわたしは、病気になるのは、
物理的側面が原因である場合もあるし、
エネルギー的側面が原因である場合もある、と思っています。

さらに、どちらかだけが原因として影響することはなくて、
どちらかの原因が顕著になった時に、もう一方のバランスも崩れていると、
病気という形で症状が出るのではないかな?と考えます。

それは、自身のがん(やその他)の経験を通して考察したことでもあるし、
たくさんのがんサバイバーさんとお話しをする機会があった中で作られた、わたしの仮説。

例えば、大きなストレスを長くにわたって抱えている(エネルギー的な側面)人が、
睡眠不足や過労によって肉体が大きく疲労する(物理的な側面)と、
その時に体調を崩す、病気になる、といったような。

どんなにストレスを抱えていても、
時間には余裕があってよく眠れる、食べられる、という環境だったら肉体には無理がないから、
体調を崩す、病気になるには至らないと思うのです。

身体がどんなに傷ついていても、
心理的に前向きであったり、ストレスが少ない環境にいれば、スムーズに回復してゆくけれど、

逆に、身体が傷ついている時に、

心も塞ぎがちで、ストレスを強く感じる環境にいると、回復が遅れる、なんてこともある。

物理的側面とエネルギー的側面のどちらか、だけじゃない。
両方が作用し合うことで、現実の問題や出来事が現れる。

だとしたら?


今回のウィルスにも、
物理的側面とエネルギー的側面のふたつがあるのではないかな?と思うのです。

人間に、肉体(物理的側面)と、感情や思考(エネルギー的側面)があるように。
ウィルスにも、物理的側面とエネルギー的側面があるんじゃないかな?

☆これはあくまでもわたしの仮説。わたしの考えです。
 本当は嘘か、真実はわからないよ。
 ただ「わたしがそんなことを考えている」という事実を書いています。


ウィルスの物理的側面は、すでに研究がされて各種報道がなされている通り。
だからみんなそれぞれ、調べたらいい。

エンベロープウィルスだから、消毒や石鹸の使用によって外側の膜を破ってしまうことが有効ですよ、というような。それです。
物理的な話。たくさん記事や研究が出てきてる。

一方でエネルギー的側面の方の話は少ないと思うのだけれど、
わたしは、今回のこのウィルスは、


ひとの恐れや怒りや不安に反応するもの


なのではないか、と思っています。

しかも、表面的な恐れや怒りではなくて、
各人がもっと深いところに溜め込んできた、押し込んで隠し通してきた、そういう恐れや怒り。それに反応、作用するものなんじゃないかな?

(*あくまでわたしの仮説)


ひとは誰しも、多かれ少なかれ恐れや怒りを持っている。
奥底にあるそれ、というのは、例えば、

幼少期に体験した出来事(お友達との喧嘩とか、親からされて嫌だったこととか、いじめとか)がそのままになっていること。それはそのときには解決していないのに、「無いもの」「もう大丈夫なもの」として、やり過ごしてしまっている。

そして成長する過程で体験する様々な出来事の上積みによって、「奥にしまい込んだままになっている」という、それ。

もうずっと昔のことであるあの時の、ムカついた気持ちや怖かったことが、
奥にしまい込んだまま、そこに在る。のです。

そして、その人のベースとなる奥底にそのような気持ちが残ったままになっているから、
大人になっても、どんなに成長しようとも、

「これをしたら怒られるかな」とか、
「これをしたら嫌われてしまうかな」とか、
「こうしたら上手くいかないかな」とか、

そのような不安が生まれてしまう。
それゆえに、

「怒られないように」
「嫌われないように」
「失敗しないように」

怒られない、嫌われない、失敗しない、そのための行動をしてしまうのです。
そして、そうした行動は往々にして「本来の自分の希望や在り方」とは異なるのです。

「本当はこうしたいけれど」
「本当はこれが好きだけれど」
「本当のわたしはこうだけれど」

でも、

「怒られないように」
「嫌われないように」
「失敗しないように」

こっちを選ぼう。
こうしておこう。
やりたいけれどやめておこう。
やりたくないけれどやっておこう。

多くの人は残念ながらこういうことをたくさんしています。
心当たり、あるでしょう?

この行動のおおもとにあるのが、
「奥底の恐れや怒りや不安」というもの。

もし、この「奥底の恐れや怒りや不安」がなかったら。

「怒られないように」
「嫌われないように」
「失敗しないように」

という思考が働かなくて済むから、堂々と、

「こうしたい」
「これが好き」
「これがわたし」

を選べる。

こうしたい、これが好き、これがわたし、を堂々と選んで表現したそれは、
まさしく「これがわたし」といえるものでしょう。


さてここで。


もし、このウィルスが

ひとの恐れや不安や怒りに反応するもの

だったとしたら?

すでに「これがわたし」として堂々としているひと(恐れや怒りや不安が少ないひと、すでに自身の中で解消しているひと)にはアタックしないのではないかな、と思うのです。

また逆に、今回のウィルスのアタックを受けて、恐れや怒りや不安を解消することができたら、
ウィルスによる病状の回復とともに、「これがわたし」も堂々と蘇ることができるのではないかな?

実際に、これまで罹患した人や、その数や、世界での動きを見ていて、
そのようなウィルスの特性を、わたしは感じています。


恐れや怒りがあるがためにまとってきた、強がりとか作り上げてしまったキャラクターとか偽のわたし。

それをウィルスがアタックしてひっぺがしにきている。

ひっぺがし、なので、そういうものをたくさんまとってきた人は一時的に大きな痛手を伴うかもしれません。
たくさん身につけていた、服やコートやアクセサリーを身ぐるみ剥がれるようなものです。ウィルス姿の追い剥ぎ。笑

たくさんの物を身につけて、ぬくぬくゴージャス風にやっていた人が突然、素っ裸にされたらものすごく抵抗があるでしょう。失う服やアクセサリーに対する執着にとらわれたら、ものすごく苦しいでしょう。

けれども、

本当はそんなものは身につける必要がなかったもの。
そんなものを身につけなくても、中身のわたしそのものそれだけでじゅうぶんだったんだよ。無くても大丈夫だったの。

そして追い剥ぎは手荒なやり方で、
「お前は素っ裸でも危なくないし、じゅうぶんだし、美しいんだぞ」をわからせよう、教えよう、としてくれているだけなのです。

ただし、やり口が手荒すぎるので、一時期に感じる痛みがものすごく大きい。もうやだ…となるほど、なんですけど。

もともと、「これがわたし」で堂々としているところに、
本当にわたしが好きなもの、わたしをより際立たせてくれるもの、としての服やコートやアクセサリーを身につけていた人は、ひっぺがされるものが少ないかもしれません。なぜならそれは、本当のわたしにぴったりのオプションなだけ、だから。

それは、恐れや怒りや不安ゆえに身につけているものではないから。
あくまでも「これがわたし」のオプションでしかないもの、です。

そうじゃなくて、「これがわたし」で堂々としていないところに、
見栄えだけを良くしようとして似合わないのに身につけてきた、服やコートやアクセサリーが脱がされるのです。

わかるかな?この違い?

しかし、後者はそもそもその人自身、本当のその人、に似合っていなかったものだし不要なものだから、
脱がされてひっぺがされても、何も問題はないのです。
ただ脱がされたその時一瞬はめちゃ寒いけどね。裸は恥ずかしいけどね。笑

「もともと無くて良かったもの」だから、
なくなっても困りません。

そして、
似合わないもの、不要なもの、がひっぺがされて、
ひとびとがみな「これがわたし」という本来の姿で生き直し始めたときに、
世界はとても自由で安心して心地の良い場所になるのだと思います。

だって、人類が、
怒られることや嫌われることや失敗すること、を不安になるのではなく、
堂々と「わたし」で生きるんだよ?

そのような人々の集まりは、安心でしかないでしょう?
不安ではなく安心を感じているひとりひとりの集合としての世界は、安心でしかないでしょう?

そういう世界がまもなくきます。

その世界へ進むために、いま、
ウィルスのアタックと手荒な追い剥ぎがきているのだと思います。
これが、わたしの考える今回のウィルスのエネルギー的側面。

ひとの恐れや不安や怒りに反応するもの
という特性を持っているウィルス。

だとしたら?
だとしたら??

物理的な側面として、これはエンベロープウィルスだから、外側の膜を壊すために消毒や石鹸が有効。
として、消毒や手洗いをして予防しているのなら?

エネルギー的側面の特性も考えて、予防したらいいんじゃない?

ひとの恐れや不安や怒りに反応するもの

という特性があるのなら?
いまからできるだけ、自分の内、奥底にしまっている怒りや恐れや不安を消化したら予防になるんじゃない?


じゃあ、奥底にしまっている怒りや恐れは不安を消化するってどうやるの?
という質問があるかもしれません。

それにはまず、
「自分がないことにしてきた自分の気持ち」を見つけてあげることから始まります。

ものすごく昔のことだったとしても。
本当は嫌だったあの出来事や、
辛かったけど大丈夫なふりをしたあのことや、
いまだに思い出すとムカつくあのこと、

それらをもう一度思い出してみたら良いです。
思い出すことが辛かったり、嫌な気持ちになるから、「まぁ無いことに」しちゃったそれらを、
決死の覚悟で笑、思い出したらいいんです。
決死の覚悟でやっても、どうせ死なないから。

(もしひとりでその作業をすることがどうしても辛い場合には、信頼できる人、友人やパートナーやカウンセラーさんや先生と一緒にその作業をするのも良いと思います)

そしてそれをノートに書いたり、人に話したりします。
そして、「それはもう昔のこと。終わったこと」であることと、
「いまはすでにその状況でないこと」を確認して、
「いまの目の前には何があるか?」を見つめます。

そうすると、
「昔の感情や出来事はもう昔のもの」であって、
「いまは目の前に大切なものがある」ことがわかる。
過去と今の切り離しができます。地続きのままになっていたこと(過去と今)、が終わる。

そしてまた、
「そのような昔の出来事があったけれど、いまこうしてここにいる自分」に気がつくことができたら。
「よくここまで体験してきましたね。自分、おつかれさま」という気持ちになります。

こんなことをやっていると、いつのまにか、
自分で自分を労うことができています。それがいわゆる、自分の癒しとか、そういう表現をされる、それ。

言葉で表現するといまいち的確さに欠けてしまいがちだけれど、
やってみたらわかるよ。「なんかもう大丈夫」「なんだか傷や痛みが薄くなってきた」と感じる、その感覚が起きるから。

それが、
奥底にしまっている怒りや恐れは不安を消化
という作業です。

こうして、
物理的側面からも、エネルギー的側面からも、
両面からウィルス対策をしていたら、まぁだいたい大丈夫だろうな。

…わたしはそんなことを考えて、この日々を過ごしています。

ひとりロックダウン、外出控えましょう。という日々。
自分の内側を整理するために使えるおうち時間がたくさんあるでしょう?

ウィルスはそのための時間すらも生み出してくれています。
手荒な追い剥ぎですけれども笑、
必要な時間も状況もちゃんと作り出してくれています。


いまは、すべての人と世界が、
本当に良くなってゆくための道中なだけなのです。

この道の先には素晴らしい世界が拡がっているのだと確信しています。

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