価値あるものの使い方

すべての人間が等しく持っている、最も価値のあるもの。

それは「時間」だと思う。

 

どんなステイタスの人にでも、
どこの国、どの人種の人にも、
なにをしている人にでも、

共通して「この肉体が終わるまで」という、
肉体の限り=寿命
という時間の制限がある。

 

お金がたくさんあれば、時間を買うことはできる。
しかしそれは、「自分でやると60分かかる作業だが、お金を払ってプロに頼むことで、自分がその作業に充てようとしていた60分が浮く」という話であって、
「お金を支払えば寿命を60分延長することができる」というわけではない。

 

肉体が終わる=寿命が終わる、その日は確実にくる
そして寿命は引き延ばせない

 

残念ながらそれが現実の事実です。

 
時間=命
とも言えるでしょう。

 

だから、この人類全員平等に与えられている限られた時間の中で何をするか?が問題なんだけど、
これを深刻に捉えている人が少ないように感じています。

 

 

わたしは、大きな病気を経験しているせいか、
そしてまたその影響で、いつ再発や転移をするかわからないもんだなぁ、という緩いけれど確実な覚悟をしているせいか、
「命は必ず終わるよ」
ということをものすごく現実的に実感しています。

ついでに言うと、命そのものが終わらなかったとしても、
病気や怪我によって「肉体が不自由になって、好きなことが自由にできない時がいつくるかもわからないもんだな」と実感もとても強くある。

 

だから、肉体が自由に動くうちにやりたいことをやっておかねば、と思っています。

しかしだからといって、前のめりに行動的なわけでもない。焦ることもないし、不安になることもないんだけど、ただ「ムダな時間は使えないな(だって圧倒的に有限だし)」という感じで、

普通にムダづかいをしたくない

という、非常にフラットに、エコな姿勢なだけです。

 

 

 

 

わたしが思う時間のムダづかい、とは、

自分の時間、自分の世界を生きないこと。

 

自分とは関係のない誰か生活を覗いたり、意見を聞いたり、
自分が買うわけでもない広告を見たりするような、

自分に活かされない情報収集に、視覚や聴覚、そして時間を使うことがムダだと思っています。

だってその情報を知って、自分の世界の何になるの?
え?ムダじゃない?

 

それはまるで、

隣の畑で水やりをしている人を眺めていたり、
「この間、畑に肥料を撒いたんだ!」と言う人の話を聞いたり、
ビニールハウスの広告を眺めているようなものじゃないですか。

そんなことをしていても、
自分のところの露地栽培の野菜は育たない。
自分の畑に、水をやったり肥料をやったりするしかないんですけど、
それをせずに、隣の畑で水やりをしている人を見ていても意味ないよね。

水やりしている人を眺めていても、
自分の畑には水が撒かれないよね。

露地栽培だったら、ビニールハウスの広告も見る必要ないよね。

 

 

畑の例にするとわかりやすいのに、
ついついわたしたちはこういうことをたくさんしてしまっている。

 

 

自分の時間を自分の世界を創るために使うのではなくて、
他人を観察するために使ってしまう。ムダ使い。

 

これの最たる例が、
ネットサーフだと思います。

 

 

スマホやPCがあれば、なんとなーくずっと何かを見ていられるから、
ついつい見てしまうでしょう?
見る、じゃなくて、聞く、の人もいるでしょう。

ネットではなくて、これがテレビに置き換わる人もいるでしょう。

 

 

そういうわけで最近、SNSに触れる時間を格段に減らしました。

減らした、だけで、全く見ない、わけではないけれど。
自分が好きな人や、知識やエネルギーを受け取れると感じられる人からの情報は受け取るけれど、
なんとなーく繋がっている人やなんとなくフォローしていた人の投稿は目にしなくなった。

だって、それらの投稿を見ても、わたしの世界の形成に1ミリも影響がないのだもの。1ミリも影響がない情報を収集している時間がムダだな、と気づいてしまったので。

 

 

誰かがどこかで怒っていても、わたしに関係はないし、
誰かがどこかに食事に行っていても、わたしに関係ないもの。

 

 

「いやいや、そういう投稿を見ることで知らなかったレストランを知るきっかけにもなりますよ!」という意見も理解はできるのだけれど、

もし、本当に自分が「あれが食べたいなぁ」と感じるときには、なぜかどこかからそういうレストランの情報が必ず入ってくるものです。
なぜなら、世界は完全なので。必要なときに必要な情報が必ずやってくる。
食べたいな、と感じるものも、必ず自分の欲求の中から引き起こされる。

「ひとの投稿」をきっかけに欲求を引き起こす必要はないの。
自分の内からその欲求は必ず発生するのだから。そして内からその欲求が発生したときには必ず、必要な情報もどこかからやってくる。

だから、「誰かの投稿をきっかけに」なんていう必要がないのです。

 

 

それに気がついたらますます、
SNSに触れる、情報をなんとなく収集する、
という気が起きなくなってしまった。

すると、今までいかにムダな時間を費やしていたか、
惰性で時間を使ってきたか、に気がつくようになりました。

 

 

惰性で使っている時間、と、
自分がやると決めたことをしている時間。

この2つは明らかに異なる輪郭があって、
惰性で使っている時間はなんだかどこかぼやけていてはっきりしないのだけれど、
自分で行動を決めて使っている時間はすごくはっきりしている。

 

味覚で例えたらわかりやすいかしら?

 

なんだかぼやけた味のりんごを食べるのと、
新鮮ではっきりしている味のりんごを食べるような、

そんな違いを感じることができます。できるようになりました。

 

 

 

時間という財産をはっきり使うこと。
それは命をはっきり使うということなのではないかな。

 

そうして時間を使うという感覚の輪郭をはっきり感じられるようになると、
時間=命であるから、命の輪郭もはっきりと感じられるようになるし、
その時間と命を使って創り上げる自分の世界というものも、よりはっきりしたものになってゆくのだと思います。

 

 

はっきりしてゆくから、迷わなくなる。
するとますます、不要な情報を仕入れる必要がなくなる。

 

 

これが、全人類に等しく与えられている最も価値のあるもの、
「時間」を上手に使う方法であり、
自分の命を精一杯生ききる方法なのだと思います。

 

 

ムダな時間と情報に、
脇目をふるのはやめよう。ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です