感情のはたらき

昨日から、目の前のビルが外壁塗装をしています。
不安定なゴンドラに乗ってペンキを塗っている作業員の方々。

持て余した時間がたくさんあるわたしは、その姿をぼんやりずっと見ているけれど、
見ていれば見ているほど、不安定なゴンドラでずっと作業する彼らに「ごくろうさまです。本当に。ありがとう」という気持ちが湧いてきます。
というのも、目の前のビル、というのは普段わたしもよく通りかかる馴染みの場所だから。彼らがしてくれるような、表には目立たないけれど確実な作業があって、街もビルも成り立っている。


この前のフライトの時、実は乗客がものすごく少なかったんです。
わりと各方面への渡航回数は多いけれど、あんなに空いている機内は人生で初めて見た!というほど。おそらく乗客は10名ほどだったと思います。

それなのに、キャンセルにならず無事に飛ばしてくれた航空会社に対して、心底の感謝がわきました。絶対に採算なんて取れないだろうに、それでも予定通りに動いてくれたこと。ありがたい以外の何物でもありません。


このような感じで最近、些細なことに「ありがたや…」と感じています。
また「うれしいな…涙」という気持ちも大盤振る舞いしていて、昨日なんかは夕方の大雨と雷を見ているだけでも「この時期のこの大雨…だいすき。好きな景色を濡れない室内から見ていられるなんて、なんてうれしいことなんだ」と窓辺に張り付いていました。



ありがたいとうれしいが大盤振る舞い。大セール中。



しかし、たった数週間前。多忙のピークにいた時は真逆の気持ちでいて、
例えば運転をしていて目の前の車がゆっくり走っていただけで「おせーよ。舐めてんの?!」くらいキレていました。役所で書類作成に50分かかると聞いただけで「おせーよ」と(口に出しては言わないですけれど)。とにかくいちいち怒っていました。



たった数週間でこの変わりよう。



感情、ってこのように自然と変化するものなのです。
そして、それが変化するきっかけは状況や環境によるものが大きいのです。

状況や環境によって「自然に」変化するもの。
だから「作為的に」変えようとしてはいけません。



感謝をしましょう、とか、喜びましょう、という一見前向きな教えもあるけれど、
感謝も喜びも「結果的に」発生するもの。
自然に、結果的に、発生するものなのに、それを無理矢理つくりあげてはダメなんです。だから「感謝しましょう」「喜びましょう」というのは、健やかな教えではありません。



感情は「自然に発生する」という性質があるからこそ、
わたしたち自身や状況を客観的に判断できるという役目を果たしてくれるもの。


数週間前、些細なことにキレたり怒っていたわたしに、感情は、
「疲れすぎているよ」「やりすぎているよ」「居るべき場所は別にあるよ」ということを教えてくれていました。

もしこのときに「キレていたらいけない」「寛大な心を持たなくちゃ」なんて思って、前向き偽ポジティブ!な感情を捏造していたら、
「疲れすぎているよ」という感情を通した身体からのサインや、
「いま居るべきはここじゃないよ」という感情を通した魂や運命からのサインを、
受け取れずに見落としていたはずです。

逆に、小さなことに「うれしいな」「ありがたいな」という気持ちがあふれるいまは、感情が、
「いまのペースが良いね」「ふさわしいところにいるね」ということを教えてくれています。



こうやって、感情は自分と状況をはかるリトマス試験紙のようなもの。
せっかく試験紙が「赤色」で出ているのに、青色のペンキで上塗りしたら、「本当の結果」がわからなくなってしまうでしょう?

そんなことは、してはいけない。



大きな、大切な役割を果たしてくれている感情。とてもよく働いてくれている。
その役割と、自分に伝えてくれていることをもっと丁寧に見てあげた方がいいよ。

勝手に改ざん、捏造しないであげて。
わたしたちにとってとても重要なことを伝えてくれているのだから。








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