魂を売らない

近頃は穏やかな日々が続いているせいか、ここ数年のことを振り返ることが度々ある。

 

ちなみに「穏やかな日々」というのは物理的な話ではなく、精神的な面において。物理次元では、いまだ続いている行動制限やワクチン云々など、落ち着かないような事象も多いのだけれど、
それらは表現のとおり「落ち着かないような」なだけであって、やはり、現実物理次元でどのような事象が起きていても、どのような状況だったとしても、
精神面、頭の中はいかようにもできる。だからこのような行動制限下の生活だったとしても「穏やかな日々」を営むことはできるのです。

 

そう、それでここ数年のことを振り返っていたのだけれど、何度も何度も、そして最も痛感しているのが、

「あのときに魂を売らなくてよかったな」

ということ。
人間社会に生きていると、幾度となく「魂を売るチャンス」がやってくる。
けれどもその度に「魂は売らない」と決意を繰り返して生き抜いてきたからこそ、いまのこのわたしと生活があるのだと痛感しているのです。

 

 

魂を売る「チャンス」?
魂を売りたいと思ってる人なんているの?

 

と、疑問に思うかもしれないけれど、
ひとは無意識的に魂を売ってしまう。

それは「売りたい」から売る。というよりも、「得たいものがある」からその引き換えに魂を売っている。のです。

だから当の本人も「魂を売った」ことに気がついていない場合が多い。その瞬間は「売ったもの」よりも「得たもの」にフォーカスしがちなので、売ったことに気がつかないのです。

 

 

魂を売って得るもののだいたいが、

お金/名声/社会的な評価

これらのうちのどれか。あるいはこれらを組み合わせたコンボ。

 

これをするとお金になるよ。
こうしたら社会的に「ちゃんとしてる人」として評価されるよ。
こうすると立派な肩書が得られるぞ。

そのようなものを得るために、ひとは魂を売る。

好きでもない仕事をしたり、
心にもないひとと結婚したり、
欲しくもない物を購入したり。


そうすると、

給料というお金や、
「あの人はちゃんとしている」という社会的評価や、
それを持っているという肩書

を得ることができる。

けれどもそこで魂は消耗している。
だって「本当はそんなことを望んでいなかった」から。

そう、望んでいないことをすると魂が消耗するのです。
望んでいないことをすること=魂を売る
と言ってもいい。

でも、魂を売ったぶん、お金や社会的評価や名声は得ることができる。

それは通常のお買い物システムと似ている。

100円を払って、ペットボトル飲料を得る。ような。
魂を売って、名声を得る。原理はほぼおなじ。

この仕組みは一見当たり前に見えるし、それが好みなひとはこの仕組みの中で生きたらいい。

 

けれど、わたしはどうしてもこの仕組みを導入できなかった。
それらを得るために、自分の魂を売るなんてことはできなかった。

だから、「魂だけは絶対に売らない」と決めて進んできたのだけれど、そうなるとその過程には損失も発生した。
その損失とは、
「おい。他の多くの人間とおなじようにしろよ」という魂の取り立て屋に追われたり嫌がらせをされることや、「それを売らないなら、こっちもやらねぇよ」というわけでお金や社会的な評価を得られないこと。

傷つく言葉や態度を受けることも何度もあったし、理解されないこともあった。
「自分以外の多くとおなじ」ようにできないように感じる、あるいは物理的にメンバーから外されるような疎外感もあった。

 

でも、実はこの損失というのは、まさしく「その一瞬」に「起きたように見えるだけ」なのです。
「起きたように見える」だけ、であって実は起きていない。そう、損失は起きないのです。

実際にわたしも、その瞬間としばらくは「傷ついたように感じる」こともあったけれど、よくよく振り返ってみたら「本質的には傷ついていなかった」し、
疎外感を感じたけれど、実際には疎外されていなかった。というかそもそも、自分の世界に自分が居られなくなる、あんてことは起き得ないのだから「疎外」なんてことはあり得ない。
「自分以外の誰かの世界」から自分が外れてしまうことはあるけれど、それは「自分以外の誰か」の世界の話なのでどうでも良いことだし、コントロールのできないこと。自分がマネジメントできるのは常にいつだって、自分の世界だけだもの。
そしてその自分の世界から自分が疎外される、なんてことは起き得ないのです。絶対に、無い。不可能なこと。

だから、どうしたって損失は起きないのです。
「その一瞬は」起きるように見える、けれども、「実際には」絶対に起きない。

けれどもこの仕組みの真理を見抜けていないと、「損失が起きてしまうこと」をおそれすぎて、おそれと引き換えに魂を売ってしまうのです。
そしてまた、得られるもの(お金/社会的評価/名声など)があるから、魂を売ってもいいや、と安易に思ってしまうのです。安易に思いすぎて、本人は無意識ですら、ある。それがすごく怖いのだけれど。

 

そしてその先はどうなるかというと、
魂抜け殻状態の人間になってしまうので、

なんだか楽しくない
なんだかスッキリしない
だけどよくわからない
とりたててやりたいこともない、わからない

という感覚が日を追うごと、年を重ねるごとに濃くなってゆく。しかし時間と人生は自ずと流れゆくから、惰性的な日々や人生が流れるようになってしまう。
そしてだいたい「忙しいからできない」というフレーズを言い出すように、なる。

(すでにこうなっている感覚でや自覚がある場合は要注意。
気づいたのなら、いつかどこかで売った魂を取り戻しにいかなければ…!)

そう、このように魂を売って魂抜け殻状態になってしまうことの方が、莫大な損失なのです。

 

 

あのとき、大多数が考える「普通」に従わなかったことや、目の前にチラついた名声に傾かなかった自分を、心の底からほめてあげたい。

そう思えるくらい、いまのわたしはいまの日々に納得と満足感がある。
自分にとって大切なことも好きなことも嫌なこともわかっていて、だんだんと輪郭が濃くなっていっていることも実感できる。

抜け殻ではなくて、日々に実感を持てること、そしてなんでもないことに幸福や充実を感じられることがとてもうれしいのです。もしいま、魂抜け殻状態だったらこのような穏やかな日々は続いていなかっただろうと予測できる。

 

 

しかし、ひとがそのようなもの −お金や名声や社会的評価− に弱いこと、また「損失してしまうかもしれないこと」に対するおそれが強く出やすい、という特徴も理解できる。

だからこそ、それだけ足元をすくわれる可能性や魂を売るチャンスはいつもすぐそこにあることを自覚し続けて、「魂は売らない」という決意を何度でも繰り返してゆく必要があるのです。

 

もし、いますでに魂抜け殻状態であることに気がついたら。とりあえず売った魂を取り戻しにまいりましょう。

魂がまだちゃんといまここにセットされている場合には、これからも売らないように気をつけましょう。

 

 

魂を売るチャンスは、すぐそこに転がっているのだから。くわばらくわばら。


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