昨日は、大切な友人の命日だった。
ちょうど1年前、彼女はしれっと宇宙へ帰っていった。
幸運なことに、その直前にわたしは会うことができて、まるでわたしの一時帰国を待っていてくれたかのような再会を果たした「ついでに」というノリで帰っていってしまった。宇宙に。
そんなタイミングだったから、お別れにも夫婦揃って立ち会うことができた。
タイミングは良かったけれど、そんなところでタイミングの良さを発揮しなくていい。というかそもそも「まだ早いよ!」なんだけど。
あれから1年経った昨日は、彼女のことを想いながら過ごした。
お互いに血縁のある家族の問題を抱えていて、その内容も似ている部分も多かったから、血縁の有無よりも信頼の有無で「家族といえる存在」を定めているところがあった。
そんななか、お互いはお互いにとって「家族枠」に属している存在だった。
彼女には、生徒さんも友人もたくさんたくさん、いた。
いつも人に囲まれていて、彼女を囲む人から親しまれていた。
けれども昨日、彼女のことを話題にする人を、わたしは見かけなかった。
SNSでもリアルでも繋がっている共通の友人やコミュニティが複数存在しているにも関わらず、そのなかで、彼女の話題が出ることはまったくなかった。
昨年、「訃報」という形でおしらせを出した時には、多くの反響やお声をいただいたのだけれど。
1年経てばひとは簡単に忘れてしまうし、
おしらせをもらわないと反応すらできない。
そうなんだよね。
簡単に忘れてしまう、その時点で「簡単に忘れられる程度の事」だった証明になってしまう。寂しいけれども。
今回のことのみならず、さまざまなシーンで「いやいや、忘れるつもりはなかったですけれど、忙しくて…」という人の声をよく聞くけれど、それは言い訳である。
マインドのなかで、
忙しいという他の用事>忘れたそのこと
という比率になっていたことは事実だから。自分のマインドを充てる割合がそうだったことは、もう、認めるしかない。言い訳なんていらない。
おしらせをもらわないと反応できない、というのは、それほど受動的にしか自分が生きていないということ。
むこうから来る情報に反応する、しかできなくなっている証であって、
それってつまり意識が死んでいる、あるいは、そのトピックに対して意識がむいていないという証拠である。
自分が能動的に、自分の気になることや知りたいことにむかっていたら、自らその情報へアクセスするから「おしらせしてもらわないと反応できない」なんてことが起こり得ないもの。
となると、おしらせしてもらわないと反応できない、ということは、
受動的にしか生きていない(意識が死んでいる)、あるいは、それについて興味がない、ということのいずれかである。
興味がないなんて非情だな、という自分を認めたくない。
受動的にしか生きていない、意識が死んでいる、なんていう自分を認めたくない。
そういう自分を認めたくないから、「忙しくて」とか「本当はそう思っていたんですけど」みたいな言い訳を並べるんだよね。
あーーー気持ち悪い。
わたしはそういう言い訳をする人、自己保身に全力な人が大っ嫌いです。
そういうことを「気持ち悪い」と感じる感覚が、異常だと自覚しています。
人間が「ウソをつくこと」に対する嫌悪感が異常なのです。
非情な人間である、ことに対しては何も思わないし嫌悪感も起きない。ただ「そういう事実である。以上」で終わることができるけれど、
非情な人間であるという事実を見えないようにするために、言葉や態度でコーティングをされ始めると、途端に「気持ちわる」となってしまう。
言葉や態度のコーティング=ウソ
だから。
SNSの世界には、
目に入って情報に反応するだけの人、が多いように思う。
自分から情報を探しに行かなくても、アプリを開けばタイムラインに「繋がっている人の投稿」が勝手に出てくる、あの仕組み。
それによって人間はどんどん受動的になってきているように感じる。
自分の意思で、自分のほしいものを取りに行く。のではなくて、
勝手に流れてくるものに反応をして、おしまい。
…この状態で意識が生きてるって言える?
それだけ受動的に生きていて、つまり意識が死んでいる状態だから、
感覚もどんどんどんどん鈍くなってゆく。鈍くなってゆくから、受動的に受け取る反応ですら、刺激の大きなものにしか反応できなくなってゆく。
わかりやすくて、刺激の大きいもの。
わかりやすくて、刺激の大きい情報。
だから、例えば、
結婚しました!とか、
子供が生まれました!とか
訃報とか、
会社を起こしました!とか
転職しました!とか、
家を買いました!とか、
そういう、誰しもにとってわかりやすくて、わかりやすく大きいライフステージ的報告には反応しやすい、反応されやすい。
ついでに、他者から認められたい欲求の強い、この反応をもらいたい人間は、反応をもらいやすいネタとして、こういうことにこだわりがち。ここを制覇したいがちになる。
ライフステージ的な話のみならず、たとえば、
話題のあそこに行きました!とか、
海外へ行きました!とか、
イベント!とか、
一般的な日常とは離れた話題も、反応しやすいし、反応されやすい。
だから、こればかり追い求める人間がいる。
そんなに大きい刺激にしか反応できないその意識、大丈夫?
大きい刺激に騙され続けているけれど、大丈夫?
大切なことや大切な人は、本当は刺激が大きくない、日常のそこら中に存在しているのに。
鈍った感覚と死んだ意識で生きているから、どんどん大きな刺激を追い求め続けて、
そもそもすでにそこに在る「大切なもの」を見落として、自ら踏みつけ続けている。
昨晩、彼女の家族と連絡をとって、すこしお話をした。
さすがあの人。死んでもメッセージ送ってくれるね!笑とか、最近の近況とか、そんな話をして、とても心が温かくなった。
夫とも「お別れの会に行ってからもう1年なんて、ね」と話をしつつ、あの日にあったおもしろ不思議エピソードを思い出して笑ってしまった。
大きな刺激になる話題を投げて、付き合いの浅い多くの人に反応してもらうことよりも、
こんなにも些細で繊細は話題が自然に浮かんで、深いつながりのある大切な人と心を通じ合えることの方が、
わたしにとっては、大切で価値のあることだな。とつくづく思った。
こういう大切なことをリマインドさせてくるあたりも、さすがゆかりじ。
自分のことをきっかけに、こんなことを思い出させるなんて〜やるねぇ!