ひとをむしばむもの、罪悪感

しれっと再開書き始めたこちらのブログ。

再開2日目ということもあって、まだ誰にも気づかれていない様子。アクセス解析を見ればわかる。

各種SNSでまちまち発信したり、ブログを新しくしてみたり。色々やってみても、その度に瞬殺でちゃんと見つけてくださる方がいて、それはとっても嬉しいことだけれど、

どこかで「いつも見られている。追われている」感覚があって、それが過剰になりすぎた時に「怖い」という感覚に変化したことも、事実。

それにはきっと、生い立ちも大きく関係している。下町で、地域でよく知られた家に生まれたわたしは、幼少期から「誰々さんちのお孫さん、お子さん」という視線を、常に感じて生きていた。

それはもちろん悪いことだけでなくて、そのネームバリューゆえの良いこともたくさん経験させてもらったけれど、
一歩家の外に出れば、いつどこで誰に出会うかわからない、いつどこで誰にみられているかわからない、というのがだんだん負担に感じるようになっていった。


わたしが海外が好きで、海外だと暮らしやすい、というのはここにも理由があると自覚している。生い立ちや職業など、背景を知らないなかで「ただのわたし」だけを知って、個人としての付き合いをしてもらえることがうれしい。



話はそれたけれど、今日の本題。


人間を蝕むもの、について。

蝕む、というのは不健康になるということ。不健康とは、肉体的にも精神的にもどちらの意味でも。

人間はなぜ病気になるのか?=健康を害すのかをずっと考えていた。かくいう自分自身ががんサバイバーだし、幼少期から体調を崩しやすい子供だったこともあって、「なぜ人間は不健康になるのだ?」を考え続けていたのだけれど、

最近これだ!と確信を持った不健康になる原因のひとつ、そして大きな要因が見つかった。それは罪悪感である。

大なり小なり、ひとは罪悪感という感覚を感じる生き物である。

その罪悪感の中には、

・そんなもの感じる必要はないのに勝手に思い込んで勝手に感じるもの

と、

・自らがした行いを「悪いことをしたな」と感じて感じるもの

の2つがある。この2つはすこし異なる。

 
前者の方は、例えば「わたしだけ幸せになってしまったら申し訳ないな」というようなもの。

「わたしだけが幸せになってはいけない」「他者はみんな幸せでない」という、根拠のない思い込みの上に成り立って、感じている感覚。

後者の方は、「ひどいことを言って相手を傷つけた」とか「嘘をついてしまった」とか、そういう具体的な「悪としている行動」をとった自分に対して感じる感覚。

 

根拠があるかないか、実際の事象があるかないかの違いともいえるかな。

いずれにせよ、人間は根拠のあるなしに関わらず、罪悪感という感覚を感じる。

そしてこの罪悪感が、心や肉体を蝕む。

多少のアルコールなら体内で消化分解できるように、多少の罪悪感なら自分の中で消化分解できるけれど、

それが許容量を超えて蓄積した時に、

酒で身体を壊すのと同じように、罪悪感で心身を壊す。

 

 

わたしたち人間は、大いなる存在、源、アートマなどと表現されるものから生まれたもの。だから、わたしたちの根源、魂などと表現されるそれは、おおもとと同じエッセンスが働いている。

大いなる存在、源、アートマという存在は、愛そのものである。愛そのものだから、「傷つける」とか「否定」などという概念は働いていない。

 

そこから枝わけされて存在しているわたしたち一人一人なんだから、わたしたちの根源や魂は当たり前に、愛そのものであって、傷つけることや否定などの概念がないはず。もともとは。

 

けれども、人間としての現在のこの個体として存在するために、エゴ(アハンカーラ)という機能も搭載していて、そのエゴ(アハンカーラ)が、傷つけたり否定をしたりする概念を持ち込んでいる。

 

魂レベルでは愛そのものであるのに、
エゴ(アハンカーラ)の機能によって、傷つけることや否定をしてしまう。

 

これは「本来の状態とは別の(逆の)ベクトルが働いてしまう」ということ。

だから、本来の状態そのものであれば、愛しかなくて健やかにいられるだけの存在なのに、その本来の状態とは別の(逆の)ベクトルに進む=健やかでいられない=病気や不健康、になってしまうのだ。

 

 

前者の方の罪悪感は、「根拠がないのにそう思い込んでしまう」だから、自分のマインドを変えてゆく必要がある。不要な思い込みを外したり、捨てたり。

それには、少しのコツと練習が要る。でも大丈夫、そのやり方やコツを伝えてくれている人がこの世にはたくさんいるから。そういう人の元で学び、練習をしたら良いだけです。

 

 

 

後者の方の罪悪感が、性格が悪いんだけど、こちらは今からでも、自分でも、どうにでもなる、ただし自己努力が必要だけれど。

 

自分が「いけないな」と思うことを、自分がしてしまったとき。

誰かを傷つけたとき。

嘘をついたとき。

そういうときにただ、「ごめんなさい」と言えばいいだけ。素直に謝ればいいだけ。自分がしたことで「悪かったな」と感じることを、素直に認めて、謝罪する。自らの行いを正す。正す、というのは「悪いな」と感じない行いに変更してゆくということ。

 

これをすればいいだけなのに。

この「これだけ」ができない人間が多い。なぜできなくなってしまうかというと、それはエゴが作用するから。

どうしても「自分は悪くない」と思い込みたくて、「悪くない」ということにして、なんなら相手のせいにしたりする。

相手のせいにして、「自分は悪くないんです!」「自分はこれでいいんです!」「正しいことをしています!」という表現をし続けてしまう。そしてそれは実際に力技で可能なんだけど、

「わたしは正しいです!間違っていません!」を表現するためにパワーを使いながら、その裏ではやっぱり罪悪感も働いている。

表ではどんなに「正しいです!」の表現をしていようと、
その裏側にある良心や感情は消えて無くならないから、ずっと心に引っ掛かりがあるというか、罪悪感がふつふつと燃えている。まるでとろ火でずっと煮込んでいるかのように。

 

 

これを続けていたとき、どうなると思う?

 

「正しいです!」の表現をし続けるためにパワーを消費しながら、
その裏で罪悪感にもとろ火がかかり続けて続けているから、

自分の心身を消費するうえに、罪悪感にも着実にむしばまれるの。

 

そしてあるとき、自分の力技で使えるパワーが無くなったときに、

病気

という形が発症する。それが身体にデルか心に出るかは、個人差があるけれど。

 

 

 

こうして、罪悪感はひとを蝕む。

 

 

このカラクリがわかったのなら、こうならないようにしたら良いだけ。

 

とても簡単なこと。

 

自分の良心には背かない。正しいと感じられる行いをすること。
同時に、不要な思い込みを外すこと。

 

 

 

 

 

 

 

 

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