3.11ということで、今日はTLでも震災関連の記事が目にとまります。
わたしの今日のひとつめの用事は「ご近所さんとメダカの里子交換をする」でした。
たまによその子を混ぜないと血が濃くなってしまうから。
そして交換したメダカのお世話をしながら、「こういう日がただただ続いてゆけばいいなぁ」とぼんやり思いました。
3月11日だからこそ、メダカのお世話という極めてなんでもない日常の出来事から「なんでもないことのありがたさ」がリマインドされたんだろうな。
これは本当に小さな例でしかないけれど、
あの震災があったからこそ気がついたことや、生まれた想いや暮らしや行動が変化したこと、はそれぞれにたくさんあると思う。
もちろん、ネガティブな変化もあったと思うけれど、逆にポジティブな変化も起きているはず。
だからわたしは、震災は起きたけれど悪いことばかりじゃないし、良いこともあったね。と思っています。
これは震災という言葉を「がん」に置き換えてもそう。
がんに罹ったけれど、良いこともあったね。と、本気で思っている。
ちょっと違うのは、「震災(がん)が起きて(罹って)良かったね」という表現。
ときたまこういう表現も見かけるけれど、わたしはこのようには思ってない。表現は少しの違いだけれど、中身は大きな違い。
あの出来事があったからこそいまこういう自分が在る、というポジティブな要素はたくさんある。
例えばわたしの場合、自分が罹患した経験があるからこそ、今はがんサバイバーさん向けのヨガクラスを開催できている、とか。
だけど、いつもポジティブな思いだけでいられるわけではもちろん無くて、体力の戻らなさを感じたりうまくいかないことがあると、「あのとき病気にならなければ違う人生もあったんだろうなー」とか、考えても意味がないとわかっているタラレバを考えてしまうことだってあるわけです。
だから、悪いことばかりじゃないし良いこともあったよね。くらいの感じ。
悪いことも良いこともあったよね。と言うのもウソじゃないけれど、それよりはもうちょっと前向きに捉えたいから。悪いことばかりじゃないし良いこともあったよね、が一番しっくりくる。
わたしはこれが一番しっくり来ているけれど、すべての人がそう思う必要はもちろん無い。
けれど、起きた出来事をどう思っているのかをそれぞれが自分で自認しておくのは大事だと思ってる。
ひとの考えや物事の捉え方なんて、均一にできるわけがないんだから、
「わたしはこう思っていますよ」「わたしはあなたとは違うけれどこう思っているの」という、それぞれの思いが尊重されれば良いだけでしょう。
わたしの思いはわたしのもの、相手の思いは相手のもの。
その間にある違いをゼロにする必要はなくて、その間の距離を適切に計って見極めておけばいい。
その距離を計るためには、自分の思いがしっかり独立しておく必要があるね。自分がどこにたっているのかがわからなければ、相手までの距離なんて計れないもの。
そうでないと、わたしの思いを振り返らずに相手の思いばかりを見てしまうから、その人の発言が気になったり文句を言ったりしちゃうんだよね。
相手に目を向ける時間があったら、まずは自分の思いを振り返ろうよ。
自分は今日をどう思ってる?