この週末、江戸は三社祭でした。
というわけで、わたしもすっかり祭り脳な現在。
昨日の余韻で生きている感じ。あぁーかっこよかった!(←こればっかり言ってる)
お神輿を見ていているときに(わたしは深川の神輿しか担ぎませんので、三社は完全に観客側なの)聞こえてきたのが、
「みっともねぇことすんな」と
「どこよりも美しく担いでください」とのお言葉。
そういえばさきの本祭りのとき、うちの総代も、
「まわりから羨ましがられるようにやれ」って言ってたな。
わたしはこういう感覚がだいすきですよ。
見栄なんて張ってなんぼ!と思ってる。
かっこつかなかったらとダサいじゃん。かっこつけてかっこいいのなら、それはつまりかっこいいですよ。
謙虚であることが良しとされたり、「ありのまま」という言葉が流行ったり、
そういう世間では、見栄を張ったりかっこつけたりすることはなんだか良くないこと、とされている印象があるように感じています。
でもね、見栄を張る、かっこつける、ということはそれなりに努力が必要なんだよ。
外から見られたときにかっこいい形であるためには、
服装や身につけるもの、髪型などの身だしなみから、所作や立ち居振る舞いまで、
すべてを意識して形作らないとできないの。それにはすごく労力が要る。
身につけるものや身だしなみをととのえるには、お金も時間もかかる。
疲れているときに疲れてる顔を見せないような振る舞いをするには、心身ともにがんばらないとできない。
どこから見ても美しい所作であるためには気も抜けない。
そういう、様々なエネルギーを使わないとかっこなんてつかないんだよ。
そこを努力をするエネルギーをつかう、ということはそもそもかっこいいじゃないですか。
かっこつけることや見栄を張ることが良くない、とされているのはおそらく、
外身を作る(見栄を張る)ために、自分のエネルギー(心身の体力やお金や時間などすべて)を超えたことをしてしまって、
体調を崩したり、経済的に困ったり、大切な約束をすっぽかしたり…そうすると自分以外の誰かにとばっちりを与えるからそういうのがダメだ、って言っているんだよね。
自分のキャパシティの出来る範囲で、かっこつけること見栄を張ること、は全然ダメじゃない。
見栄を張る、かっこつける、は◎
自分のキャパシティを超えている、無理しすぎているは×
ですよ。
そうすると、あれが欲しいとか、こう在りたい、これをやりたい、こうかっこつけたいという欲が出てくるんだけれど、それが出てきたときに、「いまの自分はどこまで出来るのか」に向き合わないとならないの。
どこまで買えるのか、どこまで時間を割けるのか、どこまでやれるか。
自分の欲と自分のキャパシティの現実をどっちも見てバランスをとる必要がある。
すると、たいていは欲と現実にギャップがあるから「欲しいのに叶わない」という現状がやってきます。欲しいのに叶わない、フラストレーションだよね。それはツラいです。まさに現世の修行。
その現実が見えてしまったときに、自分にできる範囲で理想の形に近づけるように工夫する思考をこらしていると、出来る範囲で形作ることは出来るよ。
しかしなんとなくかっこがついても、心の中に「まだまだ自分はこの程度(理想には距離がある)んだなぁ」という気持ちも生まれる。
そのときに自分を悲観してしまうと人をねたんだりいじけることになるから、悲観せずにこの気持ちにもちゃんと向き合うようにする。そうしたら自然と“謙虚さ”も生まれるよ。
「自分はいま、この形には出来るけれど、あの形にはまだまだなんです」みたいな。
だから、「かっこつける」と「謙虚な気持ち」は同時にもつことが可能。
そしてまた、「自分の理想の形」はいますぐに叶わずとも、そこを目指して努力することはできるのよ。目指すところが見つかったなら、そこへ向かって進めばいいだけ。
なのに、この現実と理想にギャップがあるツラさや理想まで努力する苦労を味わうのが嫌だからって、
「ありのままで良し」とか「いまの自分で満足」という言葉や形に逃げちゃうんだよね。
わたしはそれがすごく嫌い。
理想と現状が100%一致していてギャップが全く無い、だから本気で本当に「現在の自分に満足している」という人は、「いまのありのままがいいんです」って言っていい。
だけどそうでないなら、逃げ口上にそれらの言葉を使わないほうがいいよね。
言葉で逃げちゃえば、ツラさや努力の苦労を味わわなくて済むからその場は楽なんだけど、
逃げているかぎりいつまでも自分の理想には辿り着かないよ。
いつまでも理想の形は来ません。
そんなの絶対嫌だから、
わたしはいまの自分のキャパシティ最大限にかっこつけつつ、自分がいいなーと思う形のほうへ着々とすすんでゆきますよ。
堂々とかっこつけてたらいいじゃないの。