仕事という言い訳

数日前から流れている海老蔵さまのニュース。

わたしとリアルで面識のある人はすでにご存知と思うけれど、
大ファン♡な海老蔵さま、そして現在深く関わっている“がん”の話、なので、
どうしても話題が目についてしまいます。

色々と思うこと、考えることはあるのだけれど、
「報道の人も仕事というのはわかるけれど、そっとしておいてあげたらいいのに」という意見を複数見たんだよね。

 

この「仕事というのはわかるけれど」というところ。
わたしが納得しないフレーズ。

どうして、「仕事だから」は正当な理由である、ってみんな思い込んでいるのだろう?

これがわたしはずっと、すーっとわからない。

 

「仕事だから時間がない」とか、
「仕事だからやらなければならない」とか。

 

それって、言い訳じゃない?

 

今回の「報道も仕事だから〜」を例にあげると、
「仕事だから」と言いながら、相手に踏み込んでいっているのは事実。

それは「仕事だから」やっているのではなくて、
「相手に踏み込む」ということを、やりたくてやっていること。

「いやいや、そうじゃないんですよ。やりたくないけど仕事だからやっている」と言う人もいるかもしれないけれど、
やりたくない、なら、やめればいいじゃん?

「そうは言っても仕事は簡単にやめられないんだよ」というかもしれないけれど、
世界には仕事なんていくらでもあるんだよ。
いくらでもあるのに、いま「やりたくないけどやってる」という仕事から離れられないのは、
新しい仕事に就けるかわからないという自分の自信の無さや、
仕事や生活が変化することへのおそれや、
やりたくない、と言っているけれど実は実は自分がやりたいと思ってやっている、けれどそれだと周囲からの印象がよくない(今回でいうと、病気の相手にずけずけ踏み込むなんて…やっぱりよくない印象だよね)だろうから「やりたくないことにしている」という自分の言い訳、
とかね。
それ、
すべて自分の言い訳で、すべて自分の責任です。

 

「仕事が忙しくて時間が無い」「仕事があるから会えない」というのも同じことで、
仕事、と、別の約束、のふたつのなかから、
仕事を選んでいるのは自分なんだよ。

仕事が有る無し、忙しい忙しくない、は横へおいて、
やりたいならやりなさい、会いたいなら会いなさい、という、ただそれだけ。

それを「仕事が〜」と言うのは、
自分のなかで、別の案件よりも仕事のほうが勝っている、というそれだけの事実。

そうしてもどっちも選びたいのなら、
どちらもを選べるように知恵を工夫をこらして実現しなさい、という、ただそれだけ。

 

この、別の案件、というのが、
家族との時間や、恋人との約束となると、
家族や恋人よりも、仕事に時間を割く自分の罪悪感が生まれがちだよね。
だから「仕事が〜」を正当な理由ということにして、自分で納得しようとするんだけど、
それ、正当な理由じゃないから。ただの言い訳ですから。

 

そこに生まれる罪悪感とか、
その仕事を手放せない自信の無さとか、
おそれとか、
それは自分で引き受けるしかないんだよ。

言い訳をして、相手に理解を押し付けないように。

 

そういう、自分の中にある黒い気持ちとか見たくないようなものを、
見てみぬふりすることなく、すべて自分で引き受けてゆく。

そういう部分も自分だからね。

 

見てみぬふりをしているうちは、
自分で自分を否定しているということ。
一見、楽かもしれないけれど、
一番身近な存在である自分が自分を否定しているんだから、心底では苦しいはずだよ。

だから、見たくないものも勇気を出して見ちゃったほうがいい。
そして「自分にはこんな黒いところネガティブなところがあるのかー」と、ちゃんと凹んで、ちゃんと引き受けて、ちゃんと進んでいけばいいだけですよ。
結果的に、そっちのほうが根本的に楽だよ。

 

わたしは、後者のほうが楽だし自分が心地いいと思っているから、
後者のタイプが好きだし、そういう人と気が合います。

だから「仕事が〜」というような言い訳は、さっぱり理解できない。
理解する気もないけどね。

 

 

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