インドの居心地の良さ、からのミラクル

インドから戻ってきましたナマステ!

 

戻ってからずっとインドロスを発症し、
日本のこの街の静けさのなかで、ときおりクラクションや音楽のボリュームの大きい車が通り過ぎるとどうにもうきうきしてしまいます。笑

あの騒がしさが懐かしいよ。

 

感覚器官への刺激の大きいあの国では、
感じることがたーくさんあって、感度全開。
感度が高まるということはイコール女子力が高まる、と考えておりますので、
女子力も絶賛高めキープ中♡

 

今回インド旅をご一緒したみなさんの中には、
帰国後もラッキーが続いていたり、おもしろすぎること、まさか!という驚くような展開が広がっていることも多いようです。

ミラクルの連続、というか。

 

ここでもずっと書いているけれど、
自分にウソなく正直に生きていると、ミラクルなことが起きるんだよね。
ミラクル、というか、ミラクル(まるで奇跡のように)に見えること。

本当はそれは奇跡でもなんでもなくて、
本当はこの世界はすべてが完璧に調和して状態でできているものだから、
その完璧な状態へ戻ってゆくという、ただただ普通のこと。

通常の、本来そうある状態に戻っているだけ。
だけれども、どこかにガマンや無理やエゴがある不調和な状態が「普通」だと思って生きてきていると、
完璧な調和がとれた状態が「奇跡」にみえる。
なんだか物事はうまく運んでしまう、必要な物事がすべて向こうからやってきて揃ってしまう、そんなことはまるで「奇跡」に感じる。ほんとはそれが当たり前という幸せな世界なんだけれども。

 

前置きが長くなったけれども、
インドへ行くと人生が変わるとか、
インドへ行くとあるいは帰ってくると不思議なことや奇跡が連続して起きる、というのは、

「自分にウソのない正直な状態になれちゃう」からこそ起きる結果。というだけなんだよね。

それを今回の旅で確信しました。

自分に正直になれちゃう、というのは、
自分の魂とか本心とか(言い方はなんでもいいけれど)、そういう内の内の内側にあるほんとの自分の感覚や意見に耳を傾けて行動できちゃう、ということ。

やりたいことをやって、やりたくないことはやめよう、という、表面的な感覚や話ではなくて、
本当に自分の芯から肚から感じるほうへ動くということ。

 

できれば日常からそうしていたいけれど、
秩序や常識やルールがしっかり成り立っている日本では、どうしてもマインド(思考)がブレーキをかけて、肚が感じるほうへ素直に動けなくなりがち。

「まわり(大多数)はどうか」「他の人からみたらどうか」「こう感じるのって変なのかな。一般的じゃないよね」と考えて、動けなくなってしまう。

日本は宗教や文化がわりと単一というのも理由のひとつだよね。地域によって多少の差異はあれど、全然違う文化や感覚というのは多くはない。「日本人」というある程度の幅の枠のなかで、みんなだいたい均されている。

 

けれども、インドはそうじゃない。隣の人がもう全然違う、ということが当たり前。
宗教もそれぞれで、そしてそのそれぞれの信仰が強い。
国が大きいから、地域によって言葉も違うし、食べているものも、顔立ちも、常識も全然違う。
なくなったとはいえ、未だカーストの名残だって根強い。

そんななかで、「違い」がはっきりとあからさまにされているんだよね。
それはときに残酷に見えることもあるけれど、
「違う」という現実は現実。そこには上下も優劣もない。
隣の人とは違う各々の世界のなかで各々が自分の人生を生きたらいいだけなの。そしたら、かわいそうなことも優れていることもない。なのに、「違う」というただの現実に、「かわいそう」とか「優れている」という感情やエゴを乗せるから、上下や優劣による差別が生まれてしまうんだよね。

 

違うものは違うもの。以上。

 

で、違いがあからさまであるからこそ、
「わたしはわたし」でいることが簡単。
まわりからどう見られるかを心配することや、常識が〜と考えることが、日本にいるときよりも圧倒的に少ない。だってそもそも、みんな違うんだもの。みんな違うから、常識もなにもない。
そうやって自然とマインド(思考)のブロックがはずれるから、魂というか本音というか肚というか、とにかく自分の本質の声がよく聞こえて、それに沿って行動することができるのだと思います。

そこからは、最初に書いた通り。ほんとの自分の本質に正直な状態で生きるから、完璧な調和のとれた世界がやってくる。それは奇跡のようにみえるし、そのような出来事が起きちゃう。

 

わたしが感じるインドの居心地の良さも、そこ。
「わたしはわたし」でいられるということ。
何にも遠慮せずに、自分のペースを貫いていられる。それがとても楽チンで好きなのです。

 

 

わたしには、デリーにとても仲良くしている友達たちがいます。

人生ではじめてインドへ行ったときの初日に偶然のような必然な出会いをしてから、ずっと仲良くしている人たち。その後一人でインドへ行くたびに「いつもの店にいるよーおいで!」というノリで毎日集合してしまうような人たち。

今回も会うことができました。
この日その場にいたメンバーが3人なんだけれど、まず3人とも宗教が違うんだよね。ヒンドゥー教、シーク教、イスラム教。
となると、教義も違うから許容されることもタブーも違うの。
お酒がダメな人もお酒がオッケーな人も、タバコがダメな人もオッケーな人も。
そして既婚未婚、住んでいる場所、というライフスタイル、ステイタスも違う。

そんな人たちが同じテーブルについている。
そんな場に混ざると、わたしはわたしのルールでいいんだ、というかそれしかないな、と感じるのです。

 

このような、ばらばら過ぎる場がどうやってまとまっているのかというと、
みんなお互いを尊重しているの。
喫煙者は「タバコ吸っていい?」と聞く。「嫌だ」と言われたら、離れたところへ行って吸う。それだけ。
お酒がダメだという人と同席する場合、「嫌だ」と言われたら飲まない、もしくはボトルを紙袋の包んだ状態(パッケージを見えなくして)でさらにテーブルの下においたりする(それでも飲む人は飲むってところも笑える。でもそれは許容されたりする)。
相手を気遣って遠慮する、全員がガマンする、のではなくて(そんなことしてたら何も出来ないよ!)、
わたしはこうなんです、というお互いの意見を出してコンセンサスのとれるところを探す。

 

だから、わたしはこうなんですという自分のルールや良いこと悪いことを、自分のなかであからさまにしていないと、
相手も困ることになる。相手はどうしていいのかわからなくなっちゃうからね。

「わたしはわたし」でいていいし、
むしろ「わたしはこうなんです」をはっきりしておく必要があるの。

 

「わたし」そのもの、そのまま、でいやすい。

 

 

そんな「ほんとのわたし」が色濃いまんま帰国して過ごす日本での日々は、
そりゃミラクルとおもしろいことに満ちていますよ。

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です