阿蘇山の噴火に想う

週末の朝、目覚めたら阿蘇山噴火のニュースが飛び込んできました。
南阿蘇に大切な友人知人がいるわたしには気がかりなニュース…さっそく現地へメッセージを送りました。

 

そのとき、メッセージを携帯で打ちながら、
「いやしかしこのやりとり、何度かしたことあるよなぁ。前回もその前も噴火のときは大丈夫だったよなぁ」
と思い出した感覚。それを思い出したら、「まぁ大丈夫でしょうね」という安心感が生まれました。

手放しに全く気にかけていない無関心という安心ではなくて、
これまでのやりとりや経験があるゆえ、このようなことが起きてもまたきっとうまく乗り切るでしょうという信頼がもとの安心感。

 

そして返ってきたお返事は、
「毎度な感じ」とのこと。つまり大丈夫でした。ほら、やっぱりね。

もちろん、降灰や停電など諸々不便なこともあるのだろうけれど、
それにも慣れていたり、ちゃんと対策を知っていたりするんだよね。

 

数年に一度起きる噴火に対して、現地の人は慣れている。
そりゃそうですよ。そうでないと、長年その土地では暮らしていけない。

アラスカの人に「寒くないですか?生きてますか?」なんて毎冬のたびに聞いても、
赤道直下の人に「暑いんですって?大丈夫ですか?」なんていちいち聞いても、
あまり意味がないよね。

そこにいる人たちにとっては、
「まぁたまにあること」だもの。

 

 

こういうときに大騒ぎをするのはたいてい、蚊帳の外、の人たち。
自分はたいして被害がない、不便に見舞われないところから、
「こんな予報が出てます、気をつけましょう」「祈ってます」とか言うの。

そのなかにはもちろん心配の気持ちがゼロではないだろうけれど、
心配をしている自分というアピールや、情報を持っている自己顕示というようなエゴがわずかでも見え隠れしてしまうからか、わたしはなんだか違和感を感じてまうんだよね。

あと、「数日前からこんな前兆が出てましたよ!」というような記事も。
まるで後だしじゃんけんのようで、
出来事が起きてからそう言われても、起きたことに変わりはないし有益ではないでしょう。

 

 

その環境に慣れていない第三者が聞くと「えー大丈夫?」と言ってしまいそうな案件でも、
その環境、そこに在るもの、そこに居るもの、と当たり前に共存していると、当たり前に起きる事態、というのがある。

今回の噴火もきっと同じこと。
たまに活動する活火山のある土地に暮らしている人にとって噴火は、
まぁいつかは当たり前に起きること、これまでも起きてきたこと。

 

その環境に暮らす人、共存している人の生きる力を見くびることのほうが失礼な気すらします。
それと共存しているその土地の人を舐めるな、と。その場所で共存してたくましく暮らしているのだよ。

 

 

こんな話していて、
今回の噴火は「インドで牛のうんこを踏む」感覚に似ているのかもな、と思いました。
アスファルトがクリーンな日本に慣れていると、道端で牛のうんこを踏むなんて大惨事ですけれど、
そのへんにたくさんの牛が歩いているあの土地では、気をつけていないと簡単に踏んでしまうもの。
けっこう普通に起きることです。(なんなら子牛だってそのへんで産まれちゃっている)

 

 

 

だから、蚊帳の外からとやかく言うような無駄にエネルギーを割かないで、
今日もいまのこの自分の環境の中で、それぞれたくましく生きましょうよ。

 

 

 

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