苦行はいらない

ヨガ友達とお話しているとたびたび、「水シャワー」が話題にのぼる。

水シャワーとは文字通り、水でシャワーを浴びるというやつ。
冬でも。寒くても。お湯ではなくて水で、らしい。

 

ヨガに関わっていると、水シャワー以外にも、色々と制限する系の修行がある。
わたしはそれらをだいたいまとめて(まぁ全部ひとくくりには出来ないけれども。だいたい、ね)、
苦行、と認識してる。

アレを食べちゃだめ、コレを摂るな、あれをしろ、これをしろ、そういうやつね。

 

人間の感覚器官は欲望に惑わされやすいですから、惑わされやすい対象からあらかじめ離れておくことで、集中への道を拓きやすくしましょう、という論理かな。だいたいそんな感じでしょうね。

 

たしかに一理あるんだけれど、やっぱり納得できない。
まず「人間をなめんな!」と思うよ。

食べ物やら行為やら、なんでもそうだけれど、
あらかじめそこから離れるように設定していないと離れられないわけ?なんですよ。
意思や意識はどこへいったの!?という、ね。

たしかに、意思だけでは乗り切れない、惑わされちゃう誘惑もたくさんあるけれど、
それらに屈しない意識を培うのがヨガの実践じゃないの?と思ってる。

だから、あらかじめ避けておきましょう、を押し付けてくる苦行が嫌い。
あらかじめ避ける、ではなくて、
惑わされない意識を養う、そのためにヨガの練習と実践をしよう。ということ。

 

水シャワーを例にとりますけれども、
だいたいね、年中暑いインドと四季がある日本ではそもそもの設定が違うのよ。
暑い国にいるなら、水でもよいですよ。
わたしだって、バックパッカーでインドを旅していて安宿やアシュラムに泊まっているときに、
「あちゃー今日はお湯が出ない!」という日はあっさり諦めるし、やむなく水でも耐えられますよ。

でも、例えば1月の日本だったら無理です。
理由はひとつ:寒いもん。

インフラの整った環境にいるのに、その恩恵をあえて享受しないことのほうが不自然じゃない?
いまある環境のなかで100%の自分を発揮する、そして享受できる恩恵に心からの感謝を感じられる。それこそがヨガなのではないかな?

 

だから、流れに逆らうように、不自然に何かを排除したり強制したりする必要なんてないのだよ。

 

「あー気持ちいい。あたたかくて幸せ〜♡」って、素直に気持ちよくなって心も身体も緩んじゃって、
ふんわりした良い気分のまま、自分にもまわりにもやさしく接することができたら、それが一番ヨガ的なんじゃない?

 

苦行を重ねた先でananda(アーナンダ。ヨガでいうところの至福の境地)に辿り着かなくても、
目の前にある幸せからどんどん感じていって、幸せを積み重ねた先で、「あぁ本当に幸せ」という至福の境地に辿り着きましょうよ。
そっちのが快適じゃん。過程は快適なのに、辿り着く境地は同じ。だったら後者のほうがよくない?

なんで苦行ありき、なんだろう?わたしにはまったく理解できません。

 

 

というわけで、今年も、これからも、
ゆるっとした幸せを満喫しながら、真髄の至福までむかってゆきますよ。

苦行はやらない。やるわけないよ。もう古いよ、その発想!

 

 

 

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