やさしい世界

明日の立春を前に、
また季節が変わってゆくことと、ますます春の実感が濃くなってきているのと、
本格的に新しい一年が始まるような気がして、どうしてもうきうきしてしまいます。

 

その日の感じ、を感じることってとても大事。
どんな行事をこなすにしても、イベント的にやるだけではあまり意味がなくて、
それをすることでどのような感じがするのか、それを行う日はどんな感じのする日なのか、を味わうと、
暦と自分の体感が繋がってゆきます。暦と体感がつながるということは、
季節や自然の流れ、エネルギーなどとつながることだから、
その体感が濃くなればなるほど、進むべき方向が自ずとわかってくるようになります。

 

星読みや月の満ち欠けや暦についての“知識”がなくとも、
自分の中の“体感”でビンゴ!な答えや進む方向が決められるようになったら便利でしょ。

知識は学べばいくらでも得られること。
だけれども、体感は自分で感じる練習を積み重ねないと得られない。
だから“感じる”練習をするの。感じる練習は日常生活のなかではつい忘れがちだから、
行事のような節目を好機につかって、あらためて感じてみたらよいのです。

 

 

そんな今日は、先週も行った携帯ショップへ行きました。先週は必要書類が足りなくて完了できなかった手続きをしに。

入り口で「先週の完了出来なかった手続きに来たのですが…」と申し出たら、
「はい。いま担当を呼びますね。〇〇(先週担当してくださった方)も喜ぶと思います。」と、お返事が返ってきました。

なんでー?と思ったけれど、「喜ぶと思います」なんてお返事をいただいてうれしい。
お店に訪れただけで、喜ばれるなんて!
先方にそんなに得になる手続きでもない(むしろ余計な手間をかけている)のになんで?とも思えるけれど、そんなつまらない「なんで?」を考えるよりも、
なんだかわたしもうれしい!といううれしさを感じておくだけがいいよね。だってそっちのほうが幸せだもの。

 

この前も急に「ありがとう」と言ってくださる人がいて、その日わたしはその人に何もしていなかったから、
「なんでありがとう?今日は何もしてないよ」なんて無粋なお返事を返してしまったけれど(その自分の無粋さについては大反省している。振り返ってとても凹んでる…)、
その人からは「そこにいるじゃないですか」とこたえがきました。
存在している、ということがうれしいということ。そう言われたわたしもうれしいけれど、
相手の存在そのものをうれしいと感じられるこの人の感性や感覚がとっても素敵で尊敬の念を抱くとともに、だいすきだなぁと思いました。

 

昨日はある老舗のケーキ屋さんにて、ケーキとパンを購入したのだけれど、
帰路ふと袋のなかを見たらパンが入っていなかったのです。
お店に電話をかけると「ごめんなさいね、ご自宅までお届けします」とのこと。
会計も合っていた(そもそもパンのお代は打たれていなかった)のとお店が近所ではなくけっこう遠いので、
結局、お届けの申し出は丁重にお断りしたのだけれど、
このような心のある誠実なやりとりがとてもうれしかったです。

 

このところ毎日毎日感じるのは、
みんなやさしい…!ということ。

お友達はもちろん、知り合いでないお店の人やふとそこで交流するだけの人も、みんなやさしい。みんな親切。

 

それは、しばらく前に自分が「やさしい世界で生きようっと」と決めたから。
世界には酸いも甘いもあるもんだ、と当たり前だと思っていたけれど、それは思い込みだと気付いたのです。「それが当たり前だと思っていた」だけなんですよね。
本当に酸いも甘いもなのか?と疑って疑って考え尽くしてみたら、それが思い込みであることに気がついた…!ので、「世界は甘くてやさしい」ということに、思い込みし直し、変更したのです。

そうやって「世界は甘くてやさしい」と思っていると、
人のやさしさにフォーカスするように自然となるから(この「自然と」が大事なの。辛い目にあっている最中にも無理矢理やさしさを探す、というわけではなくて、自然とそう感じちゃうということ)、
「みんなやさしいなぁ」とばかり感じるようになるのです。

 

感じる練習を積み重ねてゆくと、
特に何を感じたいかが選べるようになる。そして自分がどのような世界で生きたいかも選べるようになるし、実際にそのような世界が展開してゆきます。

 

 

何を感じてく?
どのような世界で生きますか?

 

 

 

 

わたしの世界は今日もやさしいです。

 

 

 

 

 

 

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