このところ、だいすきな人やお友達や尊敬する人がみーんな出張で全国どこかへ行っていました。
先々週かな?は、いつも食事したり遊んだりする人が見事に誰も東京にいないほど。
ぽつん…と東京にいるわたし。
これまでだったら、そのような状況になると「取り残された感じ」がして、
寂しくなったり焦ったりしていたけれど、今回は違ったのです。
その変化に自分でも驚く…!
寂しいとか焦るとかそんな感情よりも、
「いやー立派だわ!本当にかっこいいわ!素晴らしい!」という気持ちで、
勝手に誇らしくなって、勝手に満足していました。
誇らしいどころか「送り出してやったぜ!」くらいの図々しさ(笑。ほんとすみません笑)。
昨年後半からしばらく、自分の働き方や生活を見直すことが続いていて、
「自分はどんな生活をしたい?働き方をしたい?」を自問自答し続けてきたんだよね。
そして自分の内側から出てきたのは、
全国をバリバリまわって何かをしたいわけでも、仕事一筋で暮らしたいわけでもない、
という声。
飼っているお魚の世話をしたり、お花を活けたり、
家のことを片付ける時間がとっても好き。ひとりで手仕事に集中するのも好き。
そしてヨガのクラスを開いたり、スタジオという場を運営したり、こうして文章を書くのも好き。
たまにショートトリップに出るのも好き。
人の話を聞くのも好き(ただし自分が興味のあることに限る)。
そういう時間がもてる生活がしたい。
…となると、忙しく出張に出るような業務をこなしたりバリバリ仕事することは、
わたしが本当にやりたいことではないのだよね。
けれども、そうやって仕事している人は(わたしから見ると)かっこよく見えるし、
そんなかっこいいみんなと対等に話ができる自分で在りたいから、
自分も同じような生活や仕事のやり方をしなきゃ!って、どこかで思っていたのだと思う。
それだからこれまで、焦ったり寂しく感じたりすることがあったんだよね。
全然そんな必要なかったのに!ね!
人それぞれ、向き不向きも、好みも、役割もあるんだよ。
日本語でそれを適材適所という(昔から知っていたのに腑に落ちていなかった単語)。
みんながみんな同じ行動をするから会話や生活が合う、のではなくて、
出来ることを持ち寄って、出来ないことは出来る人に助けてもらって、生活が成り立ってゆくの。
あの人が出来ないことは、わたしが出来る、
わたしが出来ないことは、誰か出来る人がいる。
わたしがやりたくない作業を好んでやりたいという誰かもいる。
そうやって埋め合わせ合う、需要と供給を一致させてゆけばいいだけだし、
そうなると、
みんながみんな、誰かにとって必要な人ということになるよね。
わたしが出来ることも、わたしが出来ないことも、みんな必要なこと。
だって、わたしが万能にすべて出来てしまったら、それが出来る人の仕事や役目を奪ってしまうでしょう?だから「出来ない」「やりたくない」ということすらも、世界にとって必要なことなの。
だから、みんなが同じように同じ量で同じ形態で仕事をやる必要はないんだよ。
張り合う必要がないの。
自分は自分のペースで、
自分のやりたいこととできること、そしてできる量を、
向いているスタイルで、やるだけ。
それがどんな仕事形態でも、肩書きでも、時間配分でも、なんでもいいの。
自分に合っている形であればなんでもいい。
誰とも張り合う必要がないから、
優劣の偉い偉くないも生まれない。っていうか、そんなものそもそも無いからね。
それが腑に落ちて、
張り合わなくなった、というか張り合えなくなっちゃったから、
立派に活躍してる人たちを横目に見つつも、お魚のお世話してヨガクラスしてのんびりしていたら、
焦るどころかとても幸せでいられました。
大切なのは、
自分で自分のやりたい形やペース、どんな生活を送りたいかを知ること。それは自分にしかわからないことだから。
そして、誰とも張り合わないということ。
そうしたら簡単に、穏やかで幸せな感覚がやってくるよ。