ぜんぶやったらいいじゃん

今週末は選挙、投票日ですね。
数年前に、それまで全く興味を持っていなかった選挙というものをちゃんと見て知るようになってから、急に選挙や政治の距離が自分のなかで縮まって、最近では選挙をおもしろがってみています。
普段は国会の中にいる人たちがどんどん表に出て来てくれて(街宣とかあるし)、直接話が聞けるんだよ。なんなら直接お話しすることもできる。
うっかり仲良くなることだってできますよ。

テレビやメディアの中で見るようなことが、実際目の前で見られるんだよ。リアルドラマ。
というわけで、おもしろがっているんです。リアルドラマ、好きなんです。

 

でね、今回の選挙でも色々な人が演説していたりSNSで発信していたり、ネットで記事を読んだり、たくさん情報を拾うことができます。
そのなかで、介護と保育園の問題、またいわゆるブラック企業や労働について語られていることは、まぁ多いです。

選挙の候補者さんでなくとも、著名な方や有識者といわれる方がこの問題についてはなにかと発信している。
その発信を見ていると、
介護士さんや保育士さんの賃金をまずあげるべき、という話もあるし、
ブラック企業で働く人がいる限り状況が変わらないんだから、嫌ならやめればいい、そして誰もその職場で働かなくなったら改善せざるをえなくなって改善される、という意見もあるし、
「嫌だからやめる」というわけにはいかないんですよ(怒)という実際の現場で働いてる人の意見もあるし、
まぁ、本当に色々な意見と情報があるのですよ。最近も一部それで炎上していたけれども。笑
それぞれ自分の立場から自分の思いを発信しているから、当然ひとつの意見になんてまとまるわけがない。

このときに、どの意見が正しくてどの意見が間違っている、という議論というかその発想が無駄だと思っています。
というか、まず、正しいものも間違っているものもないんだよ。その人の立場によって、合う意見合わない意見があるだけで、絶対的な正誤はないの。

こういうのを見ていて、つくづく思うのですよ。

 

ぜんぶやったらいいじゃん。って。

 

なんで「正しそうなどれかひとつ」を選ぶ必要があるのかな?そんなものないでしょう?

 

この上記の労働の問題を例にするならば、
賃金はあげて、その状況がおかしいと思う人は辞めればよくて、辞めるわけには行かないという人は続ければいい、っていう、
ぜんぶアリってことでぜんぶやったらいいじゃん。です。

どれかひとつを選ぼうとするから、正しいものを選ぼう、間違っているものを選択から外そう、として正誤を判断しようとするわけだよね。そして「間違っている」認定されたものが、「いや、わたしは間違っていないです!」って怒り出しちゃうの。
ぜんぶえらんじゃっておっけー!だったら、正誤を判断しなくてすむ。正誤を判断されないから、無益な対立も生まれない。

 

facebookに投稿したけれど、昨日10月17日はわたしの入院記念日です。
ちょうど6年前のこの日に、人生初めての入院をして抗がん剤治療にはいりました。
あのときの、がんとその治療過程の経験があるから、
いまこうしてがんサバイバーのためのヨガクラスを担当できているし、「本当の意味での健やか」な暮らしを考えることになりました。そのきっかけになったことだから、わたしの今生にとって大きな意味のある経験だったのだけれど。

あの頃、ストイックにヨガを実践しようとしていたから(でもそのベクトルは偏りすぎていた、といまだから気づけるけど)、自然崇拝なオーガニック信者でした。だから、抗がん剤なんて絶対にやりたくなくて(あんな毒薬は絶対に身体に悪い!だめだ!と信じていた)、告知を受けてすぐに「南インドに飛んでアーユルヴェーディックのクリニックに入院しよう」と本気で考え、計画しました。
しかし家族や周囲はその計画に反対で(そりゃそうだ笑。いまならわかる。がんの人をひとりでインドに野放しにはできないよね笑)、うまく事がすすまなくて行き詰まっていたとき、
そんなわたしに「ぜんぶやったらいいじゃん」とあっさり言う人が現れたのですよ。
日本には技術のすすんだ医療もあるし、生活環境もすでに整っているんだし、家族もいるし、アーユルヴェーダのドクターもいるし、ヨガも呼吸法も自分でできるでしょ?それここでぜんぶやったら?
ってね。あっさり言われたその言葉に納得して、ぜんぶやることにしてぜんぶやった結果、
いまこうして健やかに生きています。

当初、西洋医療や抗がん剤を「悪いもの」と自分のなかで決めつけていたから「悪いものを選ぶ」なんて選択は生まれなかった。最初から自分のなかで選択の幅を狭めてしまっていたの。
本当は悪いものでも良いものでもないのに。

世界には悪いものも良いものも無いのだけれど、
それぞれのものに、悪い点と良い点はある。長所と短所があるというのかな。
どのものをとっても、長所短所があるの。

それをふまえたうえで、いまの自分は「このもののこの長所を取り入れちゃおう」って、様々なものの長所だけをさらったら良いじゃん。
良いものを選ぶ、んじゃなくて、
ぜんぶを選んじゃってその中の良いとこだけをもらっちゃえばいい。

いいとこどりです。
いいとこどりをするには、良いものを悪いもの、正しいものと間違っているもの、と言う二元性から思考が自由になる必要があります。
選択肢を平たく横に並べて、そのなかからそれぞれの長所を抽出して使っちゃうってことですよ。
だから、まず、

 

ぜんぶやったらいいじゃん。

 

なのです。
ふざけて言えば「ぜんぶおっけー!」。もうそこのノリは軽く!

自分が欲しいもの欲しいパーツところ、ぜんぶもらっちゃおう使っちゃおう、っていう、
良い意味であざとい感じね。

 

こういうことを言うと、
「えげつない」とか「ずるい」とか「性格悪い」という印象も持たれがちだけれども、
冷静に考えてまじで、なんでだめなの?です。
それがなぜだめなのか?ずるい気がするのか?自分で考えてみたらいい。それを自分で考えたら、「あぁ、わたしってこういうところに考え方のくせがあるんだな」とか「ここに思い込みがあるんだな」というのがわかるようになります。

大人になるとどうしても、「いいとこどりなんてずるい」という印象と思い込みが染み込んでいる人が多いから、だからね、軽いノリが良いんですよ。「ぜんぶおっけー!」な軽いノリで。「いいとこどりなんてずるいわ」という重さや深刻さを吹き飛ばすくらいの軽さでね。そうじゃないと染みついているそれからなかなか抜け出しづらいもの。

いいとこどりをして、身体も健やかに心も機嫌良く生きていたら、
それはまわりの人にとっても有益なことじゃないですか。
身近な人が健康で機嫌が良い、だったらそれはまわりも幸せでしょう。もはや、健康で機嫌よくいること、そのものが社会貢献です。
そういられるために、「良いとこどり」をして何が悪いの?と。

そしていいとこどり、には良いもの悪いものがないから、
悪いと認定されるものもなくて、対立や喧嘩が起きません。

これはこういうもの、あれはああいうもの。以上。
だから揉めることがないんだよ。

平和で有益。良いじゃないですか。

 

ただね、すべて横並びの選択肢のなかから、
自分の欲しいもの抽出したい部分だけを好きに選ぶということは、「わたしはここが要る!ここは要らない!」を細かく自己判断しないといけないから、
自分の意識をクリアに持っておくこと、が必須ですよ。そうじゃないと自分に要るもの、が選べないもの。ずっと書いていることだけれど、やっぱり意識は大事。

 

 

自分の意識をクリアにしたうえで、
ぜんぶやったらいいじゃん。

 

 

です。
良いものも悪いものも、正しいものも間違っているものも、ないんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

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