感謝はするもの、ではない。わくもの。


ひさしぶりに、ひとりではじめての国へゆく道中。トランジットのバンコクで記事を書いています。

今回はじめてのネパール、なのですが、ほんとにほんとに丸腰でいまここにおります。到着してからの滞在先の住所すらわからん。笑
「お迎えに行きますよ」というその言葉を信じて来た、だけ。
帰路バンコクにも寄る予定ですが、こちらのホテル予約もなーんにもしていませんでした。現地で集合予定の友人から「予約しておいたから、さきにチェックインしておいて」と連絡がきたのが、出発前日。

 

まじで丸腰できた。
航空券と自分の身だけできてみた。まじで。

 

なんでも自分でやらないと気がすまかい、安心できない、そういう性格だったわたしとしては、これは大きな変化です。
自分でやらないと心配だし、ずっとそうしてきたから、たいていのことは自分でできるし。ひとり旅だって、このようにやってこれての今。そうでないと、あのようなインドひとりバックパッカー旅なんて成り立たないですよ。
そう、だからね、やろうと思ったら出来ちゃうの。むしろ自分でやったほうが早い、くらいに思ってた。

それは同時に、ひとを信じることが出来ていなかったんだよね。
誰かにまかせてちゃんと予定どおりに事が運ぶのかが信じられないから、自分でやらないと心配だった。
ひとがやることを信じることができないというのはイコール、世界を信じられないということ。誰かがやったなにか、では予定が、世界がうまく運ばないと思ってた。仮に、世界が完璧である、と信じられるのであれば、ひとがしたことにミスがあったとしても「どうせ世界はうまくいく」と安心していられるはずだもの。
しかし、そんな安心は感じていなかった。

ついでに、ひとのすることも世界も信じていないということはイコール、自分を信じていないということ。
ひとのすることにミスがあったとしても、それで事がうまく運ばない世界だったとしても、「自分はなにがあってもどうせ大丈夫。ちゃんと護られてるし」くらいに思える、それくらい自分の存在を信じることができていたら、ひとのすることも世界をも信じていなかったとしても、自分自身に安心していられるはずだもの。
でも、そうじゃなかったんだよね。

 

これまで、はね。

 

しかし「世界は完璧である」という世界に対する信頼を確信したいま、は、
どうせ世界は完璧だし、
どうせ自分は護られてるし、
という良い意味でのどうせ、のなかで安心しかしていません。
そうしたら自ずと、ひとのやることが信じられるようになった。おまかせできるようになった。

そしたらこのとおり、丸腰で来ることになっちゃった!笑
なんなら、実はオンラインビザの申請すら通っていないんです。笑 仕方ないからアライバルビザとれればいいでしょ、くらいのゆるい気持ちでいて、ビザがとれなかったらどうしよう…なんて心配がほんとに起きないのです。
こうやって安心していたら、
なんだかものすごい感謝がわいてきました。その感謝、というのがこれまでにあまり感じたことがないレベルの深い気持ち。

お迎えに来てくれる人、泊めてくださる人、ホテルをとっておいてくれる人、プランニングしてくれる人、それぞれの役割のみんながいるから、わたしはこうやって丸腰で来られる。
手配や予定の手間を自分でかけなくても、ちゃんとすすんでる。
そうやってまわっている世界もありがたい。うれしい。
わたしは楽ちんで楽しい。

そうなると、感謝しか生まれないのです。ほんとうに。
で、気がついたんですよ。
よく、「感謝の気持ちをもって」とか「感謝しましょう」とか言うけれど、
感謝って「するもの」ではないのです。その気持ちが「自然とわくもの」なんだよ。
作為的にやることじゃない、自然発生的するものなの。
悲しい、とか、うれしい、とおなじただの感情なのですよ。感情だから、コントロールするものではない。

悲しくないのに悲しもうとしてみたり、うれしくないのに喜ぼうとするのは不自然だし、感情にそぐわないことをしているとストレスがたまるでしょう?
感謝もそれとおなじなの。不自然に「感謝しようとする」とストレスがたまるだけ、しなくていい。だって勝手に発生するものだから。

なのに、道徳的に刷り込まれてるいるものなのか、感謝は「しなければならない」ものになってるんだよね。
「悲しまなければならない」は不自然だって気がつくのに、「感謝しなければならない」は不自然ではないと思い込んでる。
これ、とても不自然で不健康な思い込みですよ。
そしてそう思い込んでるから、一見ありがたくみえる状況なはずにもかかわらず感謝できない、という気持ちのときに「感謝できない自分はだめだなー」とか思ってしまうの。

それ、だめじゃないから。
ただ単に「感謝の気持ちがわかなかった」というだけ。とても自然なことですよ。

誰かが亡くなったときに、ものすごく悲しいと感じる人と、このような人生を送って幸せだっただろうねおつかれさま!と思う人がいるでしょう?
この場合の後者の人に「もっと悲しまなければならないものだよ!」なんて言わないでしょう。
それと同じこと。
感謝という気持ちがわいたときに「ありがとう!」でいい。
感謝がわかないからといって、「わたしはだめなんだ」と思わなくていい。

うれしい、悲しい、楽しい、とおなじ。
どのような状況で感謝がわくかわかないか、は個人の感情によるもの。それだけ。
でもね、うれしい、悲しい、楽しい、感謝、は味わえば楽しいものだから、
どのような感情もちゃんと動く、反応できるように、普段から感度を高めて生きていたら良いのだと思います。

感謝しよう!として生きる、んじゃないのよ。
感情の感度を高めて生きる。そうしたら自然と感謝もわいてくるようになるものです。

 

 

 

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