なにを見てなにを聞くのか

みんな、形のある大切なものは「もったいない」といって大切に使おうとする。
大切に使うことはもちろん良い心がけだけれども、使うことそのものが「もったいない」という感覚に陥ってしまって、ケチったり出し惜しみすることすら、ある。

 

「お金」はその最たる例だと思う。
お金を雑に使う人はあまりいない。
使うときは慎重になって、なるべく(というか絶対に)損をしないように、本当にそれが価値があるのか、あるいは同じものがもっと安く手に入らないのか、調べたりもする。
それほど、大事に大事に使おうとしている、ということ。

食料だってそう。
なるべく無駄に捨てることがないように計画して購入したり、すこしの賞味期限切れくらいだったら「まぁ大丈夫かな」と食べることだってあるでしょう。

車や自転車もそうだよね。
ちゃんと「大切に」乗るでしょう。縦列駐車が出しづらいからといって、前後の車にすこしぶつけて前後のスペースを広げて、車を出したりはしないでしょう(インドだとたまにあるけどね!笑)。
大切な高級セダンで砂漠や雪山へはいかない。なぜなら大切な車が痛むから、傷がつくから。

服だってそう。
気に入っているお出かけ用のオシャレ着で農作業はしないでしょう。登山だってしないでしょう。
土がついたり落ちない汚れがついたら嫌だから。

 

こうして、形ある大切なものは大事に大事に扱う。
形のあるものは、使ったり時間が経ったりするうちに、
無くなったり劣化するということをわかっているから。だから「いまある」ものを大切にしようとするでしょう?
大切だから、使う場所や使うときも選ぶ。

 

 

なのにさ、わたしたちの感覚器官の扱いはどう?
(感覚器官とは、目や耳や舌や皮膚や鼻の、感覚(視覚とか)を受け取る器官ね)

わたしたちの肉体は限りがあるもの(ババジのような不老不死の聖者については一旦横へ置いてね)。
基本的に亡くならない人間はいない。から、感覚器官も必ず無くなる。

そして感覚器官は老いや使い方によって、遅かれ早かれ劣化する(鈍くなる)。老眼や耳が遠くなった、とかいうそれですね。

つまり、お金や食料や車や服とおなじように、
有限で形のある大切なものでしょう。

むしろ、感覚器官が働いていないと、
お金や食料や車や服という大切なものを味わうこと、愉しむことができません。
舌(味覚)がないのに、食べ物を味わうことはできない。

五感がひとつも働かないなかで、お金を使って楽しめる何かってあるかな?わたしはすぐには思いつきません。

 

ということは、お金や食料や車や服などの形ある大切なものよりも、
「さらに!」大切な形あるものは、感覚器官でしょう?

 

じゃあさ、
お金や食料や…(以下略)などを大切にするのとおなじように、
いや、それ以上に、
感覚器官や自分自身の身体を大切に扱おうよ。

 

…という、ものすごくシンプルなことが抜け落ちている人が多いように感じています。

 

食料を大切に扱うという気持ちがいきすぎて、
鮮度ギリギリのものを無理して食べたり。鮮度にかぎらず、お腹いっぱい(身体のキャパシティは超えている)のに「もったいないから」と言って無理に食べて片付けようとしたり。

大切な食料。それよりも大切なのは身体のはずなのに、
食料を大切にするがあまり、身体をないがしろにしている。…っておかしいでしょう。

こういうときに引っかかりになるのが、自分のエゴ。
「せっかく購入したのに作ったのに、食べきれない使いきれないのは、ダメだ。捨てるなんてイケナイことだ。そんな悪いことをするなんて…」という罪悪感が発生して、
罪悪感から逃げたいがために、「無理に食べる」という解決方法をとって、
無かったことにしようとするわけです。
そして身体をないがしろにしているのです。

 

そっちのほうがだめじゃん!

 

『お金や食料や…(以下略)などを大切にするのとおなじように、
いや、それ以上に、
感覚器官や自分自身の身体を大切に扱う』

これは基本中の基本だよ。

 

だからね、「無理に食べる」なんて方法は選択肢にそもそも無いの。
食べきれない使いきれない食料に対峙せざるをえなくなった場合には、
まずは「無理に食べる」以外の方法でどうにかしてそれを捨てずにすむやり方を探す(ここは思考が頑張るところ)。
それでも良策が見つからない場合は、どうしても生まれてしまう罪悪感から逃げずに、
「あーやっちゃった…」と落ち込みまくって凹みまくって、そしてその失敗を次に活かせばいいだけです。
そこで、その罪悪感から逃げないように!(逃げると「無理して食べる」が生じるパターン)

 

 

ちょっと話がズレたけど。

感覚器官も身体も大切に大切に扱うんだよ。
お金や車は、「いつ」「どのように」「どこで」使うかを選んで使うでしょう?

おなじように。
感覚器官も身体も「いつ」「どのように」「どこで」使うのかを選びましょうよ。

お気に入りの高級車でだらだらとドライブしているうちにいつの間にか雪山に突入している、なんてことはしないように、
だらだらとテレビをつけているうちにいつの間にかくだらないゴシップを見ている、なんてことがないようにしたらいい。

 

現代はネットもテレビも風景も、とにかく情報というものがものすごく多いから、
「いつのまにか」感覚器官に突入してきてしまっているものがたくさんある。
聞きたくもないゴシップや雑音、見たくもない写真や文字、受け取りたくないニュース。そういうものも勝手にこちらのなかに、こちらの感覚器官のなかに、入ってきちゃう。

感覚器官も身体も「有限で形のある大切なもの」なのに、
そんな、聞きたくもないもの見たくもないものに、感覚器官を浪費していていいの?

 

わたしは絶対に嫌ですよ。
だって、大切なわたしの感覚器官や身体だもの。
だから、大切に使う。

 

だから、
今日見るものも選ぶし、
今日聞くことも選ぶし、
今日味わうものも選びます。

無駄使いなんてすることがないように。もったいない、もの。

 

だから、
目に入るものはお気に入りを選ぶし、
苦手な騒音のある場所には行かない。
五感を無駄使いしない、五感がよろこぶ、自分がだいすきな環境を選ぶし作ります。

 

 

なにを見るのか、なにを聞くのかは、全て自分で選べることです。
選ぶという作業をせずに、勝手に入ってくる情報や環境を自動的に受け取っているのは、
自分自身に対する怠慢です。

 

 

今日なにを見る?
今日なにを聞く?

いちいちちゃんと選びましょうね。

 

 

 

 

 

そんなことを言っているわたしは最近、
「朝目覚めたら一番に、だいすきな風景が見たいなぁ」
という「なにを見る?」という問いへの自分からのお返事があったので、
先月ヒマラヤで撮影してきた風景をプリントしてさっそく寝室に飾りました。
だいすきな美しい風景を「見る」ことができて、本当に幸せに感じます。
こうやって、幸せな世界というのはどんどん自分で創ってゆくことができるのです。

 

 

 

 

 

 

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