今日の絶妙なタイミングと願いを叶える話

本日、絶妙な流れのなかで気がついてしまったことがあるので書きます。
ようやく自分のなかでも腑に落ちて理解できたこと。

 

このコラムブログのアクセス情報っていうのかな?どの記事がどれくらい読まれています、というような設定のページを見ると、
願いが叶う手前で起きることの記事と、
願う→叶うのタイムラグを小さくする方法の記事が、
いつもいつも誰かしらに読んでいただいているのです。
わたしがしばらく更新をサボっている時でも毎日、この2記事は毎日誰かしらが読んでくれているの。

でね、その統計を見ていて、
「みんな願いを叶えたいんだなぁ」ってつくづく感じていたのです。
そして、どうしたら願いが叶うのかのプロセスを上手に説明できるようになりたいな、と思っていました。それはいまも思っています。

すこし前にアメブロのほうでわざわざ「今日のミラクル」っていうカテゴリーを作ったほど、
わたしはわりと願いを叶えるのが得意だから。ミラクル!って言われるような展開を起こすことがよくあるから。
そういうミラクルを引き起こすコツは、satya(正直であること、ウソをつかないこと)とahimsa(傷つけないこと。自分も他人も)でいて、エゴを少なくしてゆく。そして完璧な流れを信頼しきっておまかせする、というだけなんだけど、そんなこと言われても「はぁ?」でしょう?というか説明がわかりづらいよね。抽象的すぎて実践的でないし。

だから、どうしたらその方法をわかりやすくお伝えすることができるかなーと考えていました。

 

そして今朝。そんなことをぼんやり思いながら、ご依頼いただいているクラスへ向かっていました。
自転車に乗りながら、思考を流していたんだけど(この思考を流すっていうのも直感をおろすコツなんだけど、とりあえず今はこの説明は省きます)、そのときは良案が浮かばなくてね。

 

そうこうするうちに、クラスに着きました。
そしてそのクラスで今日、「今生きている世界と死後の世界では何が違うのか?」という話になりました。本日のクラスは、スートラやギーターというヨガやインドの聖典を学んでらっしゃる方も多いメンバーだったのでそんな話になったのだけれど、つまり、
肉体を持っているいま(生きている世界)と肉体は無くなるけれど魂や意識は存在している世界との違いは何か、と。

そこでやはり、
身体を持ってする体験は生きていないとできないし、その体験を通して感じられる喜びは生きていないと感じられない、という結論になりました。
そして一人の方が「呼吸をする気持ちよさは生きていないと感じられない。そうわかると呼吸することで本当に幸せを感じられる」とおっしゃったのです。

さすが。ながらくヨガを実践なさっている方は身についているなぁ、と嬉しく思っていたのですが、
この帰り道また自転車に乗っていて気がついたんですよ。

 

 

わたしたちはこの世界に「体験」をしに来ています。
肉体を持たない、魂や意識というものだけで存在できる世界では、苦痛や痛みもないし物理的な制限もないから、まぁ平和だし穏やかだよね。
だけど、肉体がないからこそ感じられないこともあって、それは例えば、呼吸の気持ちよさとか美味しいものを食べた時の「おいしい幸せ!」とか。そういうのは肉体がないと体験できない、味わえないことです。

だから、わざわざ物理的な世界に「体験」しに来ます。

魂や意識だけの平和で穏やかな世界には足りない刺激を味わいにくるという感じかな。魂や意識が「肉体があるからこそできる体験をしに行こう!」って望んで来るわけです。
で、神様というか大いなるものというか宇宙というか、どんな言い方をしてもいいけれどとにかくそういう大いなる存在はとてもやさしくて親切だから、
わたしたちがやりたい!ということはなんでもやらせてくれるんですよ。
「体験しに行きたい!」というから体験できる場(この世界)に来させてくれる。
そこで「こんな体験がしたい!」というとその体験をさせてくれる。

とても親切。

これが基本です。やりたい体験はすべてやらせてくれる。とても親切。が基本。

 

だからね、「こういう体験をしたいです」を願ったら良いのですよ。
そしたらその体験はやらせてもらえるんだから、その願いは絶対に叶うのです。

 

はい以上。
…なんだけど、「ええー!?願い叶ってないんですけど?」って思うでしょう?

なので、ここで終わりにしませんよ。もうちょっと解説しますよ。

 

例えば「宝くじが当たりますように…」って願って、宝くじを買ったとするでしょう。そして当たらなかったら、やっぱり願いなんて叶わないじゃん!って思うでしょう?

それはね、そもそも願い方が違うから叶わないんです。

いいですか。「魂や意識が身体を通してやりたい!と願った体験はやらせてもらえる」んです。
もし、「宝くじを当てるという体験をしたい」ということを魂レベル意識レベルで本気で願う人がいたとしたら、それは当たります。
けれども、大半の人は違うんじゃない?
宝くじを当てたい、という願いの先にある目的はもっと違うところにあって、
例えば「旅行に行ってこんな体験がしたい」とか「あれを食べたい」とかそういう、
「宝くじで当てたお金でこういうことがしたい」という体験が本当にしたいことでしょう?
つまり、「宝くじを当てたい」のではなくて、
「お金を使ってやりたい体験がある」の。そのために宝くじを当てたい。わけ。
実際にいま急に目の前の人が3億円くれる、って言ったらそれでよくない?宝くじで3億円当てなくても目の前の人がくれちゃったら、宝くじを当てる!を狙わなくなるでしょう?
つまり「宝くじを当てる、という体験」を願っているわけではないのですよ。だから叶わない。その体験を願っているわけじゃないから、叶わないの。

 

このように、願うポイントと願い方が間違ってるんですよ。
「宝くじが当たりますように」という間違ったポイントを願っているから、叶わないの。
で、間違ったポイントを願ってることに気がつかず、でも気づかずに間違ったポイントを願い続けていて、本当に自分が望んでいることはお願いしそびれているから、本当の願いも叶わないんだよ。
こうして、いろいろあんまり叶わない。
で、「どうせ願いは叶わない」「この世は厳しい」とか思ってるの。これが人間です。

 

だから、まず、正しいお願いをしましょう。
「やりたい体験はすべてやらせてもらえる」が基本ですから、
「こういう体験がしたいです」を願ったら良いのです。

「旅行に行ってこんな楽しい体験がしたいです!」と願ったことはちゃんとできます。
「あれを食べたい。あの味覚を味わいたい」と願えば、ちゃんと食べられます。
体験は願えばちゃんと叶って、できるんです。やらせてもらえるようになっているんです。

だけど、やりたい体験は願わずに、宝くじをいう物質を願っているから叶わないんです。
で、宝くじという物質は当たらないうえ、宝くじを当てることばかりお願いしていて「あの味覚を味わいたい、食べたい」をお願いしそびれているから、「あれが食べたい」も叶ってない。結局なにも叶っていないのね。

 

同じような次の例ね。恋愛系はわかりやすいから、それで。
「〇〇と付き合えますように」も願い方が間違ってるのよ。そういう「状況」は願ってもなかなか叶わんです。誰かと関係を結ぶことで「どんな体験がしたいのか」。この「体験の部分」をお願いしたらそれは叶うんですよ。
やりたい体験はなんでもやらせてもらえるんだから。
「誰かを愛する」という体験がしたいなら、それはやらせてもらえるし、
「誰かと愛し合う」という体験がしたいなら、それもやらせてもらえる。
だけど、「こういう体験がしたいです」ではなくて「◯◯と付き合いたいです」って、状況を願うから叶わないんだって。
「愛する」「愛し合う」という体験は絶対にさせてもらえる。しかしもしかしたら、その相手は自分が望んだ人ではないかもしれません。大いなる存在としてはこちらが願った「愛する」「愛し合う」という体験を叶えてくれるわけだから、その体験ができる相手をちゃんとあてがってくれますよ。それは自分が頭に描いていたあの人ではないかもしれないけどね。

 

大いなる存在の耳に届くのは、
「どんな体験をしたいか」
これなんです。

 

で、「こんな体験がしたいです」は絶対にやらせてもらえる設定がされるんだけど、
その体験をするための過程や登場人物は、神様というか宇宙というか大いなるものというか、とにかくそういうものにおまかせした方が、セッティングが早いんですよ。
大いなる存在には、大いなる存在のやり方があるから。わたしたち人間は想像もつかないようなやり方で形作ることができちゃう。

どうしてもこの人とこの場所でこういう体験がしたい、と、設定まで細かくこちらが指示すると、
大いなるものは親切だから、こちらが指定した設定でととのえてくれもするけれど、こちらの指示に合わせてくれるぶん時間はかかる。
細かい作り込みをするには手間がかかるんですよ!そっちのやり方に合わせるのは出来なくないけど不慣れなので時間ください!みたいな感じ。「手間かかるけどやりますよ。だけど、時間かかりますから待っててね!」というやつです。

ほら、やっぱり親切。

だけど、「時間かかりますよ」って言われてるのに待ちきれなくて、
「なかなか叶わないじゃん。じゃあやっぱり違う願いにするわ」って人間側がまた勝手なことを言うんですよ。
すると、「ここまで作り込んだのにやり直しかい!」って、作りかけたものを片付けてまた次の願いを叶えるのに取り掛かろうとしてくれます。(やっぱり親切。どこまでも親切)
けど、片付けしてから次に取り掛かる、だからやっぱりちょっと時間かかるよね。片付けのぶんの時間がかかるよね。
で、時間がかかっているうちに「やっぱり叶わないじゃん!」って次に願ったこともまた諦めそうになって、また別の願いを…って言うループにハマっているのが願いが叶わないと言っている人間です。

 

だから、「こういう体験がしたい」とお願いして、
その過程はむこう(大いなる存在)に丸投げおまかせするのが、
スムーズに願いが叶う方法なんです。

みんな、「過程ばかり」をお願いしてるでしょう?
そこはこちら(人間)が指示することじゃないですよ。こちら(人間)がお願いするのは、その過程の先の「やりたい体験」だけですよ。

「やりたい体験」だけお願いして、あとはあちら(大いなる存在)おまかせしていたら、
お願いしたやりたいことは、なんでも体験させてもらえるのです。
ほら、こうして願いはちゃんと叶います。

 

 

だいたいね、これまでの人生を振り返ってみてよ。
「やりたい!」と思った体験は、すべて叶ってきてるじゃない?叶ってるんですよ。
「いやいや、願っていないことも起きてますよ」と言う人もいるかもしれません。例えば、病気とか失恋とか、その時悲しかった辛かった出来事は「望んだことではない」という人がいるかもしれません。

でもね、その出来事自体は望んでいなかったかもしれないけれど、
「出来事を通してした体験」は自分が望んだことだったはずなんですよ。

例えば、わたしはがんにかかってしばらく入院&療養の暮らしをしたことがあります。
たしかに「がんにかかりたいです」ということは願ったことはありません。仮にそう願ったとしてもそれは「状況」を願っていることなので、なかなか叶わないタイプのお願いなはずです。
しかし当時、ものすごく忙しい暮らしをしていて「ちょっとゆっくりした生活をしたいなぁ。まとまった休みが欲しいなぁ」と思っていたのは事実。しかし休むことが苦手だった当時のわたしは、仕事や開けたばかりのスタジオをクローズする勇気はなかったんですよ。
そしたら、病気の告知を受けておやすみせざるを得なくなったの。
「ゆっくりしたい」という体験はちゃんと叶っちゃった。ただ、「病気で」という過程はお願いしていなかったから、「えええー!頼んでない!」という気分になるけれど。
でもあの時は、大きな病気くらいの「やむを得ない理由」がないと、休みはとれませんでした。
だから大いなる存在は「絶対に休める理由(がん)」を作って、「ゆっくりする」という体験を叶えてくれたのです。
しかも「ちょっとゆっくりしたいなぁ」という「一時的なゆっくり」を叶えるように、病気という状況が作られて、「一時的なゆっくり」が叶ったら、ちゃんと治った!笑

これがもし「人から心配されたい。ずっと気にかけてもらいたい」という体験を願っていたら、もしかしたら治らなかったかもしれないよね。だって、大きな病気をし続けている限りずっと人から気にかけてもらえるじゃん。

 

 

ほら、やっぱり願いはちゃんと叶う。いつだってちゃんと叶えてくれてる。
やりたい体験はさせてもらえる。その体験をするために、どんな過程がやってくるかはわからないけどね。

 

自分はどんな体験がしたいの?
そこを自分のなかで明確にしておけば、それはどんどん叶いますよ。

物質や状況を願うのではなく、
「こういう体験がしたいです」をお願いするのですよ。

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

 

 

 

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