完璧の確信を深める

一昨日がスーパームーンの満月の皆既月食で、
明日は立春。天体も暦も大きなイベントが続いています。

いま、「何かが変わる」「切り替わる」タイミングの人も多いんじゃないかな?
しかもそれは、自分の本心や本音に従った方に動かざるをえなくなってしまうような、
これまでだったら外側の条件や状況に合わせて「まぁ」と我慢したり、うまく調和したいために置き去りにしていた自分の気持ちが、
もう置いたままに出来なくなる、それによって「これまでとは」状況や考え方が変わる。そういうことが起きている人も多いと感じています。

これまでは、「当たり前に」「無意識に」無理じゃない、自分はこれがいいんだ、これが好きなんだ、と思っていたことが、
自分でも意外と「これが良かったんじゃない」「好きじゃなかった」と感じるようになって、
それが自分でも意外すぎることだから、
状況や考え方が「変わる」というよりは「変わってしまった!」と衝撃に感じることが起きる人もいるはず。

でも大丈夫。いま、はそういうときで、そんなことが起きている人がたくさんいます。
そういうときなのです。

変わっちゃった!と感じるけれども、
そして、どうなるかわからない先のことが未知すぎて不安にもなるけれど、
どう変わっても、どうせ良いようにしかなっていません。
自分にとって、ふさわしいように進んでゆくだけ。

 

 

さっき腕まくりをしたら、
腕に巻いていた聖紐が切れました。

聖紐というのは、ライトに言うと昔流行ったミサンガのようなやつ。昔あったよね?お願いごとをして巻いて、切れたら叶う、というやつ。
聖紐はそれの本気のバージョンのもので、
インド(ヒンドゥー教)のお寺やお坊さんが巻いてくださるもの。
お願いごとをする、と言うよりは、お守りのような感じかな。紐を巻くことで護られている、というような。

 

わたしが巻いていた聖紐は昨年秋、リシケシュのお寺で巻いてもらったもの。
そのときすでに、その年の春先のマハーシヴァラトリ(シヴァ神のお祝いの日)に巻いてもらった紐をつけていたのだけれど、
マハーシヴァラトリから半年くらい経って、わたしも変化しているし状況も変化していました。そんなときにお寺で、スワミジ(お坊さん)が「新しいこれを」というから、
古いものはその場で切って、新しいものを巻いてもらったの。

その紐が、さっき突然切れた。
見事にぷっつり。糸が何重にも重なっているのに、全ての糸が同じところ一箇所でキレイに切れているんだよね。不思議。

 

天体や暦からもそうあるように「いまは大きく変わる。そういうとき」って理解しているから、
「すごいわぁ!タイミングばっちり。あからさますぎるなぁ」と、感動していました。
わたしの変容に合わせて、古くなったもの合わなくなったものが、切れてゆく。そういう事象。

 

でも、ずっと巻いている紐が腕から無くなるのは寂しいものなのです(発言がインド人のようだ…笑)。
その寂しさを理解してくださる人にこの話をすぐ伝えました。「こんなあからさまなタイミングで聖紐が切れたんですよ。タイミングはばっちりだけれど、聖紐がない腕は寂しいです」って。

そしたらね、わたしがこのメッセージを送ったちょうどそのとき、
この友人がグルジとスカイプでお話していたらしく(!)、
「新しい聖紐をつけてあげるよ」って言ってますよ、と伝言をいただいたの。

なんだこのタイミング!
ばっちりすぎるではないですか。
ばっちりというか、もはや、「寸分狂わぬ」という精度でぴったり。こうなると思わず笑っちゃうよね。
わたしのメッセージが、友人を通して、オンタイムにグルジに伝わる、お返事が来る、という、
寸分狂わぬやりとり。すごい。

 

昨晩はりんごを食べきってしまって、「おうちのフルーツが無くなるなぁ。明日お買い物行くかなぁ」と思っていたら、
今朝インターホンがなって、沖縄からタンカンが届いたの。
これもばっちりすぎるタイミング。

 

本当に本当に、絶妙にうまくまわってる。

 

いつもこんなことばかり言っているし、
アメブロのほうでは「今日のミラクル」カテゴリーを作ってそういう話を書き綴っているのだけれども、
なぜそんなことを言ったり書いたりしているかというと、
完璧なタイミングや、いちいちうまくまわっていることは、
自覚すればするほど、確認すればするほど、その確信が深まってゆくから、です。
だからいちいち、確認するように、書くし言う。

 

この世界は本来、すべての調和のもとで、うまくまわっています。
だからぜーんぶ、ばっちりなタイミングでうまく進んでいるのだけど、
みんなそれを忘れちゃってる。

なんで忘れることになったかというと、これまでのそれぞれの人生のなかで、
うまくいかなかったこと、や、思いどおりのタイミングでなかったこと、すれ違ってしまったこと、があるから。そういう、うまくいかなかったことやすれ違いって、ショックだったり悲しかったりしたでしょう?
そのショックや悲しい、という衝撃(心の傷)が大きかったものだから、そのインパクトが印象として残っていて、
「なかなかうまくいかない」「ちゃんと計画しないとタイミングは合わないもの」と思い込んでいるのですよ。そして、衝撃(心の傷)を受けたようなショック悲しいことを今度は感じないですむように、色々と頭で考えて「うまく運ぶように」計画しようとしてる。

そうしているうちに、
「世界はうまくまわってる」「完璧にしかなっていない」という実感をどんどん忘れちゃってるの。

 

こうなっているわけだから、放っておいたらますます「うまくまわっている」ことを忘れてしまいます。
本当はうまくまわっているのに、勝手に、うまくまわっていることは忘れていって、そして「うまくいなかいかも」という不安や心配に駆り立てられる。
…って、馬鹿らしくない?

 

だからね、「本当はうまくまわってる」を思い出すようにしたら良いのですよ。

そのためには、
「タイミングばっちり」「完璧」な出来事を日々確認したら良いのです。

電話しようと思った相手からメールがきた!とか、
用事のあった人にばったり会った!とか。
日常で起きる「完璧」「ばっちり」なことをいちいち確認したらいい。で、そういう事があったらいちいち人に話したり、いちいち書き留めたりするといい。
話したり書き留めたりしないと、日々の出来事に押し流されて、自覚や確認する間も無く流れていってしまうからね。

こういう日々に起きる「完璧」な出来事って、めっちゃ小さい出来事ですよ。
思った相手から電話がくる、とか、行きたかったお店の情報の記事が目に入ってくる、とか、スーパーの買い物が小銭ぴったりで払える、とか。そういう小さいレベル。いきなり宝くじが当たったりするわけじゃないよ。

そういう、日々の小さいことをいちいち拾って、いちいち「完璧だ」と確認していると、
だんだん「世界は完璧だわ」「本当にうまくまわっているんだ」の確信が深まってゆくから、
ますます完璧に運ぶし、
起きる出来事のスケールが大きくなってくるのです。

そう、勝手に完璧な出来事のスケールは大きくなる。
そして誰がみても驚くようなスケールの出来事が起きたときに「奇跡!」と言われる。ただそれだけ。
そうやって「奇跡」と言われるような出来事も勝手に起きるようになる日がきます。

 

だから、今日やるのは、
今日の、日常のなかにある「ばっちり」な出来事を確認すること。
今日は何があったかな?ナイスタイミングなこと、あったかな?

それをいちいちいちいち確認して、
完璧の確信を深めてまいりましょう。

 

世界はうまくしかまわっていません。

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です