今日ひとと話していて気がついたこと。
ちょうど最近「0か100かどちらかに転ぶことの結果を待っている」という話題だったのだけれど、
そのときに二人揃って「楽しみですねー」という発言が出た。
そして、「よく考えたら変態ですね(笑)」って。
だってさ、0か100ということは、
100の方に転べば願ったとおり100%だから大満足に幸せだけど、
0の方に転んだら、0なんです。これまで培ったことやわずかでも残したいこともなにも残らない、ということ。
もし0だったら…を考え出したら不安で恐怖になるはずじゃない?
なのに「楽しみですねー」とか言っている。
「楽しみ半分、恐怖半分ですね」だったらわかる気がするけれど、
ちがうの。
「楽しみですねー」だけ。
このような状況をなぜ楽しいかと思えるかというと、
まず、「どうせ100の方へ転ぶでしょ」と信じているから。
どうせ願ったほうになるよ、って。
毎度こんなことを言っていて、基本的にこの油断した姿勢ですけれども、
いつもいつも必ず願ったとおりになるわけではありません。
「あれ?」と、思ったとおりに動かない出来事も、もちろんあります。
そしてそういう時は、悲しかったり落ち込んだりします。
そんな経験も日常的にしているのに、
それでも「結果は0かもしれないけど楽しみ」と、まだ懲りずに言ってるの。
それは、もしこの結果が0のほうへ転んだとしても、まぁ死ぬことはないし、
生きている限り、次の出来事というのがやってくる。
そして、次の出来事、あるいはその次の、あるいはそのまた次の出来事が、「結果的に自分が願っていたとおりに展開する」ということを知っているからです。
いまのタイミングで、自分が願ったほうへ進まなくとも。
0のほうへ転んだとしても。
もうすこし先の未来というタイミングに、形をすこし変えたとしても、
いま願った100のほうへ動く展開が起きるのです。
だから、
(いまではないかもしれないけれど、いつかはどうせ良いほうへ転ぶのを知っているから)0かもしれないけれど楽しみー!なんです。
この(カッコ書き)のところをいちいち言わないだけ。
だから、「0かもしれないけど結果が楽しみ」という発言になるの。
仮にいま0のほうへ動いたとしても、
そこからそのあと、何が起きてどのような展開が運んで、
どうやって次の100が来るのかしら?と思ったら、ワクワクしちゃうでしょう!
どんなドラマティックなことが来るかな!?というような。
そう感じると「楽しみ」という発言が出る。
こうなると、不安は無くなるんだよね。
だって(時差はあるかもしれないけれど)どうせ100のほうへ転ぶ、んだよ。
この(カッコ書き)のところ、大事ですよ。
良いようにしかならないうえ、時差の間にはドラマティックな体験までできちゃうのですから、
「楽しみー」にしかならないじゃないですか。
この心持ちです。
(いまではないかもしれないけれど、いつかはどうせ良いほうへ転ぶのを知っている)
このカッコ書きを常に心においておく。
そして、どのような流れでそれが展開するのか、ドラマを楽しむ気持ちで現実に参加する。
そうすると、うっかり不安に飲み込まれそうな出来事も、
「楽しみー」という気持ちで迎えられますよ。
…うん、やっぱり変態だね。笑
❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験