ドキドキ

このところ仕事にプライベートに…とやることが多くて、
なかなか手をかけてあげられずにいた、うちのお魚たち(水槽4つとベビー魚の発砲スチロールが1つ)。

本日ようやく、お世話してあげることができました。
キレイになったお部屋(水槽)のなかでとてもご機嫌な様子。

そしてお世話ついでに、贔屓の熱帯魚屋さんへ新しい水草を買いに行ってあげました。
水草の買い出し、という大義名分があるけれど、大きなお店でたくさんお魚がいるからね、
わたしにとっては水族館に近い感覚で、買い出しというかお魚鑑賞というお出かけなのです。

 

そこで魚たちを観ていて、
「あーかわいい♡かわいい♡」
って、もうどうしようかと思うくらいドキドキしちゃったのです。
ピンポンパール(金魚の一種)になんて「愛してるよん♡」とか話しかける始末。
それほどときめいていました。(といいつつも、うちの子が一番かわいいですけどね。)

 

普段から、「感じる力を高めようよ」ということを提唱していて、そのためには、
ヨガをするといいよ、とか、
こういう心の扱い方があるよ、とか、
こうやって物事を捉えていますよ、
なんていう話をしているけれど、
その結果起きる感度の高まり、ってこういうことなのです。

 

自分が本当に好きなものに対して純粋にドキドキしてしまう、ということ。

 

たとえ熱帯魚屋のお魚たちに対して。だったとしても、それが本当にだいすきなものだとこんなにもドキドキするんだよ。
だいすきな彼に会えるときと同じように、ドキドキできる。
ヒマラヤを見たときと同じくらい、ドキドキできる。
魚も彼もヒマラヤも並列に、ドキドキできる大好きなもの。

 

よく、「良い恋愛をするとキレイになる」と言われるけれど、
あれは、ドキドキする機会が増えることでホルモンとかその他とかの作用が起きるから、そうなるのでしょう?

となると、日常的にドキドキする機会が増えたらみんなどんどんキレイになるはずでしょう。

 

それなのに、現代人はドキドキする機会がものすごく減っているのだと思います。
感度がとても低くなっている。

なぜそうなっているかというと、
まず日常生活におけるストレスや我慢していることがたくさんあるから、あえて感度を閉ざすようになってしまっているということもあるけれど、
それとは別のもうひとつの原因としては、
「好きなもの、の正解を探そうとしてる」
ということがあるのだと思います。

自分が好きなもの、に正解なんてあるわけはないのに、
「これを好きだって言って恥ずかしくないかな?」を無意識に意識してしまっている人が多い。まわりからの目を気にしすぎているよ。
まわり、というのは友達かもしれないし、恋人やパートナーかもしれないし、親かもしれないし、SNSにいる誰か、かもしれないけれど。とにかく自分ではない誰かから、「変に思われないかな?」あるいは「良いね!と思われるかな?」という評価を気にして、そしてその評価から外れないもののなかから正解の「自分の好きなもの」を探し当てようとしているの。無意識で。

もし、まわりの評価から外れた枠のなかに自分が「これいい!」と感じるものがあったとしても、
そこで感じた「これいい!」「好き」は無かったことにしてる。
だって、それを好きだということは、恥ずかしいし、変わってると思われるかもしれないし、「えーどこがいいの!?」なんて言われちゃうかもしれないから。
だから、無かったことにしている。

また、自分がさほどときめいていないものなのに、一般的に流行っているから、あるいは人目をひくから、誰かから羨ましいと思われるから、という理由で「わたしはこれが好き!」ということにしているものもあるよね。本当はそこまで好きではないのだけれど、好きなことにしておいたほうが格好がつくから、好きだと思い込んでいる。

そういうものを積み重ねているその結果、感度が死んでゆく。

こういうことを無意識でやってしまっている人が多いと感じています。気をつけて。

 

本当にそれに対してドキドキしているか、していないか、をいちいち感じていこうよ。
そのドキドキポイントがひとと違っていても、ひとと被っていても、どちらでもいいじゃん。

わたしはこれが好きなんです、これは好みではないんです、を堂々としてゆきましょうよ。

 

そういうひとが増えるとね、
あの人はそういう好みなんだ!わたしはこっちが好みだけどね!
と、相手のことも自分のことも同等に認めることができるようになるんだよ。
「それが好みだなんて変ね!」なんていうことがなくなる。流行りの物を持っているひとは優れていて、この物を持っていないひとは劣っているという勝ち負けもなくなる。ステイタスによる上下もない。
すごいものもすごくないものもなくて、すごい人もすごくない人もいないよ。ただ、好みがあるだけ。
すごいすごくない、になると上下や優劣が生まれるけれど、好みには優劣はなくて単純な違いがあるだけなの。そしてその違いは共通させる必要がありません。違うままで良い。
そうなると、ひとはひと、わたしはわたし、の中でみんなそれぞれでいいね!という同等な世界がくるの。その世界の中では同等だから争いが起きません。
だから、みんな自分のそのままで、ストレスフリーでいられる。

そんな世界がいいでしょう?わたしはそれがいいよ。

 

その世界にすすむためにできることが、
自分の好き(あるいはこれは好きではない)に堂々としている、ということ。
自分の好きをはかるため、確認するためには、「ドキドキ」というセンサーがついているよ。というお話です。

そのドキドキセンサーが働いてしまったときは、それを見逃さないで。まわりからどう思われようと、どう評価されようと、自分が感じたドキドキは大切にしてあげてね。

こんなことを書いているわたしなんて、魚に本気でドキドキ♡ですからね。ハタからみたら、ちょっとイタイと思いますよ。熱帯魚屋で水草を目の前にニコニコドキドキ♡してるんだよ。怪しい…笑
でも、いいの。いいんです。
だって、本当にかわいいんだもの。好きなんだもの。自分がそう感じたことがなによりも大切なんですよ。

 

そうして、「好き」を積み重ねた世界をそれぞれが創り上げて、それぞれの幸せな世界を持ち寄りましょうよ。それぞれが幸せな世界を持ち寄れば、それらを合わせて繋げた全体の世界も幸せになるのだから。

 

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です