よく、ドラマや映画などで「お金持ちの家のお家騒動」みたいなものがあるじゃない?
わかりやすく題材になりやすいよね。
そういうものを観たことがあったからか、
いつからかわたしは「愛とお金は両方を手にすることは難しいもの」と思い込んでいた、ということにしばらく前に気づく時がありました。
でもこれって、わたしだけではないと思うし、実際にそういう現実も多いと思うんだよね。
わたしのまわりにいる、裕福なお友達にもこういうパターンがよくあって、
お金はある家だけれどお父さんとお母さんの仲がよくないとか、
裕福だけれど奥さんとは仲良くなくて、別に恋人がいるなんていうことが、まぁよくある。
よくあるからもはや見慣れた展開だし、それについてわたしは悪いとも良いとも思っていません。
だけどさ、
こういうパターンを見慣れるとやっぱり「愛とお金を同時に手にするのは難しいものなんだなー」とかついつい思ってしまうんですよ。思う、が積み重なっていつのまにか、思い込む、まで深みにはまっている。
いいですか。
「思い込む」ということは、日々の小さな「思い」が積み重なって、
同じような種類の思いが積み重なって、それが深くなった時に「思い込む」まで到達するの。
現実に何が起きているかは実はあまり関係がない。
例えば、誰かに挨拶をしたけれどお返事を返してもらえなかった、という事象が起きたとしましょう。
このときに「あれ?聞こえなかったのかな?」とだけ思う人(Aさんとしましょう)はそれ以上の思いの深みに進んでいかないけれど、
「無視されちゃった…」と思う人(Bさんとしましょう)は「無視された」という現実を作るし、
そこからまた「前にもお返事もらえなかったことがあったなぁ」とか思い始めて、「いつも態度が冷たい」とか「わたしは大事にしてもらえていない」とか、どんどん自分のなかからネガティブな思いを引き出して積み重ねて、その結果「あの人はわたしのことを無視する。好かれていない」という思い込みを作っているのですよ。
勝手に「思い」を積み重ねて「思い込み」に仕上げている。それが「思い込み」。
(だから日々に「何を思うか」という、日々の小さな思考が大切なんだね)
「挨拶にお返事をもらえなかった」という事象はそれだけのそのものであるのに、AさんとBさんではその後の思いの積み重ね=思い込み、によって現実や性格が変わってくるわけですよ。
思い込みはつくれる!(かわいいはつくれる!的な。昔そういうCMあったよね?笑)
というか、自分でつくっている。
そういうわけで、
わたしは、仲が良い形とか愛という、そういう心地よいものを手にするためにはお金は無くてもいいと考えるようになって(上記のように思い込んでいるから、そう考える自分に違和感も疑問もわかないレベルで自然とそう考えてた)いたわけですけれど、
ひとつ前の記事でも書いたように、残念ながらわたしはお金も手間もかかる女なんですよ。笑
ということはやっぱり、お金のほうもあきらめられないし、
かといって、仲が悪いとか愛がないという状況も嫌なわけ。
我ながら、本質的に超わがまま!笑
そしてこの、本質的な自分のわがままを認めた時に気がついたんですよ。
「なんで両方は手に入らないと思い込んでいるのかな?」と。
すでにどうせ超わがままなんだから、もう超わがままなこのまま両方手に入れたらよくない?
で、ここまできて気がついたよね。
自分で「両方は手に入らないものだ」と思い込んでいたから、両方は手に入らなかっただけだったんだと。自分が勝手に思い込んだとおりに、現実がそうなっていただけなんです。
ではなぜそのように思い込んでいたかというと、
それまでの人生でお金と愛が両方揃って手に入らない光景をたくさん見てきたから(だからいつのまにか勝手にそう思い込むようになっていた)のと、
「お金も愛もどっちもたくさん無いとやだー」といういう自分の超わがままを認めたくなかったから、なんだよね。
外側に起きている他人の事象はよくよく見て、
自分の内側にある腹黒さ(わがままな部分)は見ないようにして、
そうして思い込みを深めてゆく。
あーバカらしい。これ大間違いですよ。
見る視点が全く逆なんだよ!
外側に起きている他人の事象はさほど見る必要がなくて、
自分の内側にある腹黒さ(わがままやさみしさ)を含めてすべての感覚を見るようにするんだよ。
そうしたら、どちらも手に入らないなんていう幻を思い込むことは、まずなくなる。こんなの幻ですよ、まぼろし。だって自分が「勝手に思い込んで」「そう作り上げた理論」というだけだもの。
まったく現実的でない。幻想、妄想。
どうせ思い込むなら、思い込みはつくれるなら、そして思い込んだとおりに現実が展開してゆくなら、
自分にとって都合の良い思い込みをした方がよくない?いいでしょう。
こういうことを書くと、「本当に思い込んだとおりに現実は動くのか?」っていう人が現れるけれど、
はっきり言うよ。なりますよ。
思い込んだとおり(思考)のとおりに現実は動いてゆくんだよ。
っていうと「なんで?」「どうやって?」って聞かれるけれど、
そのなんで?どうやって?の膨大な話を書いているのがこのコラムやアメブロや、クラスでお話ししていることであって、
でも説明するだけではなかなか信じてくれる人も動き出す人もいないから、「目に見えるサンプル」として「こんなことが起きちゃったよーん」という現実を体現してみせているわけなんです。
だから、なんで?どうやって?本当に?という人は、書いていることを読んだり、クラスに会いにきてください。もう、そうとしか言えないよね。
また話がそれた!
そう、そうやって思い込んだとおりに現実が展開するから、
自分にとって都合の良い思い込みをする方がよくて、
都合が良いように思い込んでいたら、結果的に願いが叶ったりするわけ。
だって、思い込んだとおりに現実が動く、からさ、「願ったことは叶っちゃうー」と思い込んでいたら現実もそうなるわけですよ。
簡単でしょ。
で、自分にとって都合良いように思い込むためには、
自分の内側の感覚や望み(どんなに腹黒くてもわがままでも)と対峙するしかないのです。
だって、「わがままだけどこれがいいー!」の「わがままだけど」の部分を認めて見つめないかぎり、
「これがいいー!」って思えないじゃん。思えないから、思い込めないよね(「思い」の積み重ねが「思い込み」なのですから、ね)。
「わたしはわがままでも腹黒くもない人間なんです。なので、こんなことこんな形を望んでいます」っていう、表面的なキレイな思いをそのまま思い込んだら、その表面的なキレイな思いはちゃんと形になると思いますよ。
けれどもそれは、本当に本当の自分の願いや本音ではない。から、表面的なことが叶ってもまた、不満や「これじゃない」感が出てくるよ。
ちょっと叶えて、でもまたしばらくして「これじゃない」感や「もっともっと」という不足感が生まれるなんてめんどくさいじゃん。
それなら最初から、本当に思っていることをバシっと叶えて、最初から超満足しちゃう方がスッキリ!手っ取り早いでしょう。
だから、外側に起きている他人の事象を見るのではなくて、
自分の内側にある腹黒さ(わがまま)を含めてすべての感覚を見るようにするのです。
そうしたら、
「あれ?なんで両方は手に入らないって思い込んでいたんだろう?」と自分で自分に謎に思うときが来ますよ。そして「両方は手に入らないは思い込みだった!」と気がついてしまったら、
「両方一緒に手に入るものだ!」と自然と思い込むことができるようになるし、
そしたら、両方手に入っちゃうよね。だって、思い込んだとおりに現実が展開するからね。
「両方は手に入らない」と思い込んでいたものを、
「両方手に入る」に思い込み直すだけ。
「思い込むという行為」は変わっていないけれども、その「思い込むべクトル」が変わるのよ。
だから現実のベクトルも変わって、手に入らないという現実が、手に入るという現実に変わるだけ。
というわけなので、
どちらかしか手に入らないものなんてないんですよ。
「どちらか」という天秤にかけてしまいやすいようなものだって、望めば両方手に入るよ。
両極に見えるようなものだって、例えば、「好きなものは食べたいけど痩せたい!」のようなわがままだって、好きなものを食べながら痩せられる(太らない)方法があるよ。
ただ、そういう場合は工夫やコツが必要な場合もあるけどね。
工夫をしたら、できる。つまりそれはできること。ということは「好きなものを食べつつ太らない」は可能なこと。
ほら、やっぱりどっちも手に入るじゃん。
どちらかしか手に入らないものなんてないんだよ。
なんだって、どっちも手に入りますよ!
いま、実はわたしも両極に見える2つのものを手にしようとしています。
どちらもあきらめない、あきらめたくない、から、どちらも手にすることにした!どっちも手に入るという思い込みをしてね。
そして絶賛工夫中。思い込みと工夫を積み重ねて、「どっちも普通に手に入りそう」なところまできているよ!◎
❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験