週末、六大学野球を観戦してから、早慶レガッタを観に行くという、
暑苦しい大人の遊びに連れていってもらった。
こんなに身近な隅田川で、
こんなにもアツい試合が毎年行われていたなんて…。
身近なところにもまだまだ、まだまだ!知らないことがあるんだなぁ、と、
自分が「知っている」と思い込んでいるこの世界の狭さを実感。
野球は母校(法政)の応援席で、
レガッタは偶然にも慶応の応援側のような場所に滑り込ませてもらうことができて、観戦。
どちらも、その大学の現役生やOBOGの皆さんが集まる渦中にいたわけだけれど、
その場の空気感や雰囲気がまったく違っていて、そしてそれぞれ独特なものだった。
「類は友を呼ぶ」「朱に交われば赤くなる」
という諺があるとおり、
人はまわりにいる人間や環境によって、キャラクターや生き方が形成されてゆくものなのです。
法政のOBOGはとても「法政らしい」し、
慶応の席にいた皆さんはとても「慶応っぽい」感じがした。
チアや応援団という、活動の内容はさほど変わらないことをしている各校の現役の子たちも、やっぱり、
法政はいかにも法政だし、慶応は本当に慶応っぽい。
ここまで雰囲気が変わるんだ!見るからに違うんだ!と驚くほど。
人間はまわりの人間や環境の影響を大きく受けて、その人自身の形が形成されてゆく。
そうして形成された個性が、日々の暮らし方にも、考え方にも、見た目にも、あらわれるようになってくる。
だから、
「こんな人になりたいなぁ」と思う憧れの人たちと一緒にいると、だんだんと自分も憧れていた人たちと似たようになってくるし、
「そういう人生を送りたいなぁ!」と感じる人たちと一緒にいると、だんだん自分も理想だと思っていた人生を送れるようになってゆく。
ものすごくシンプル。
望む世界に身を置くようにするだけで、
「望む世界」という憧れや夢だったそこが自分にとっての「当たり前」になるんだよ。
けれども、憧れや理想や望む世界というのは、
いまの自分からしてみたら、すこし遠いものや自分よりも「高くにある」ものに感じる(ほんとうは高いも低いもないのにね)から、
「及ばない自分がそこにいるのは恥ずかしい」とか「すみません」というような気分に陥りがちで、
それゆえに、自分が安心していられる「自分にとって馴染んだ世界」にずーっと身を置きっぱなしにしがちなの。「自分にとって馴染んだ世界」は、すでにわかっていることも多いし、新しくチャレンジすることも少ない。なんなら、そんな自分に「憧れて」くれる人や後輩なんかもいるから、すこし大きい顔ができる、という心地よさすら、ある。
だから、ずっとそういう場に身を置いてしまいがちだけれども、
そこに身を置いているかぎり、ずっとその世界が続いてゆくよ。
もちろんそれが悪いことなのではありません。
本当に心地よく感じる世界や場は、本当に大切にしてゆくのがいい。
それは大切にするけれど、
その一方で、「及ばない自分なんて…」という逃げ腰で遠ざかっているけれども、本当はいいなぁ…!と思っている憧れや望む世界があるのであれば、
そちらにも足を踏み入れてみる、そういう人たちの近くに身を置く、ということをしたらいいよ!ということです。
付き合う人、身を置く場所、それによって、
これからの自分と自分の世界がまたどんどん形成されてゆくのだから。
どんな人になりたい?
どういう暮らし方をしたい?
どんな世界で生きたい?
いつもいつも確認して。そしてその憧れや理想にすすんでゆこう。
朱にまじわりにいけばいいし、
類に呼ばれたらいいのです。
それだけです。
❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験