クラスを終えてのんびりしていたら、
西城秀樹さんの訃報が目に入ってきた。びっくり。
もちろん、知人ではないけれども、
小さい頃からテレビでよく見たことのある人だったから、なんだか身近に感じていたのかな。いつもは著名人有名人の訃報を聞いても、さほど驚くことはないのに、今回ばかりはびっくりしている。
なーんて感じながら気がついたよ。
あ。違う!
身近に感じているからびっくりした!のではなくて、わたしの中に大きなことをリマインドするために「びっくり」という感覚が動いたんだ。ってね。
秀樹をきっかけにした「びっくり」を引き金に、大切なことを思い出した。
このように、「目の前に起きる出来事を自分の糧にする」んだよ。
起きる出来事はすべて、自分が何かを感じたり考えたりするきっかけ。そして感じたことや考えたこと、気がついたことをもとに、次の行動をして、
自分の人生や生き方をより楽しく健やかに良いものにしてゆくのよ。
今年に入って、身近な人の訃報がいくつかあった。
その中にはわたしと同い年の人もいる。
そのたびに、遺された人が「もっと話をしておけばよかった」とか「昨年の記念日はお互い忙しかったから何もしなかったんだよね。こんなことになるならちゃんとお祝いしておけばよかった」とか言うのを耳にしていた。
こういう話って、これまでもたくさん!たくさん!!たーくさん!!!聞いてきたことがある。
誰かが亡くなったときに、遺された家族や友人やパートナーが「ああしておけばよかった」「もっとこうしておけばよかった」と言うやつ。
ドラマや映画でだって、よくあるパターンだよね。
それほど、「あるある」「よくある」な話と流れなのに、
自分が「遺された側」という当事者になると、「ああしておけばよかった」とか言いだす。
このパターンを見ていて、わたしは「学べよ!」と毎度思っています。
そんなこと言ったら怒られそうだし、悲しみの傷を広げることはしたくないから、こういう後悔を抱えているご本人に直接言うことはないけれど、
内心ではいつも「出たー!人間ってやっぱり学ばないんだなー」と思っている。
だって、これまでにそのような話もドラマも映画も、たくさんたくさん見てきてるはずじゃん。
たくさんそのような場面を見ていたら
「人間は亡くなるものである。いま目の前にいる人が永遠に存在してくれるわけではない。話せなくなる時、会えなくなる時は必ず来る」
という現実は知っているはずでしょう。
それが本当にわかっていたら、腑に落ちていたら、「“忙しい”を理由に記念日のお祝いをしない」ということはしないはずじゃないですか。
でも、「“忙しい”を理由に大切な人や大切な時間を後回しにしちゃう」んだよね。そうしてしまいがちなのもわかるし、現代人の習性がそうなのもわかるけれども、
それをずっと繰り返していて、いざ自分が「遺された側」という当事者になったときに「あのときああしておけば…」とか言い出すから、
「学べよ!」と思うわけです。
実際のところは、「学べよ!人間!」どころか「またそういうこと言う人が出た!ばかなの?人間!しっかりして!」くらいに思っていますよ。笑
そういう後悔をしてきた先人がこんなにもいてくれて、こんなにもそのような場面を見せてくれているのだから、
いいかげん、自分は「後悔しない人」になるのがよくない?
自分がそう「後悔しない人」になることで、先人たちも後悔の念も「活かされて」「役に立ったもの」になるよ。
ほら、みんなのためになるじゃん。
だからやっぱり、「万が一のことが起きても後悔しない人」になるのがいい。
ではどうしたら「後悔しない人」になれるのかな。どうしたら誰かが亡くなったときに「ああしておけばよかった」「もっと話をしておけばよかった」とか言いださなくてすむかな、というと。
「いま」大切な人を、「いま」全力で大切にするしかないのですよ。
会いたい人には会いに行けばいいし、話をしたい人と話をする。
伝えたいことはちゃんと伝える。
「いま」自分のうちにある「会いたい」「話したい」「伝えたい」はちゃんと行動するの。
仕事とか時間とか家族とか社会とか常識とか恥ずかしいとか、どんな理由も言い訳も一切つけないで、
会いたい人には会いに行く。話したい人とお話しをする。伝えたいことを伝える。
それをやるんだよ。
「いや、相手の都合もあるから、自分が会いたいからといって会えるわけではないじゃん」とか言ってくる人もいるけれども、
「相手の都合」をさも正当な理由かのようにしてハナから諦めるようなことはするな、ということですよ。それ、正当な理由じゃないからね。「相手を気遣っています」という「やさしさ」に見せかけて、自分の気持ちや行動を叶えないことを「相手のせいにする」という無責任なやさしさの押し売りですからね。まじ迷惑なやつ。
相手の都合があるなら、「自分は会いたいと思っています」ということを相手に伝えたうえで、どうしたら会えるのか、いつ会えるのか、
「相手の時間やエネルギーを奪うことなく」かつ「自分の会いたいも叶える」方法を全力で探してみなさいよ、ということですよ。その方法を本気で探して、トライして、それでもどうしても「会えなかった」としたら。「ここまでトライしたけれでども会えなかったなーしょうがないな」と、無理なく自然に諦めがつくところまで、行動するんだよ。
そこまでやれば、後悔しない。自然と諦めがつくから結果、後悔しないの。
「いま」大切だと想っている人のことを、「ずっと」「未来永劫」大切に想い続けるかどうかはわからない。
「いま」だいすきな人のことを、「ずっと」だいすきかどうかはわからない。
「いま」運命だと感じている人が、本当に運命の人かどうかなんてわからない。
「本当に」「ずっと」「未来永劫」そうなのかは誰にもわからないけれど、
「いま」大切に想っている、「いま」だいすき、「いま」は運命だと感じている、それは紛れもない事実でしょう。
自分が「いま」そのように感じている感覚は、本当にそこにあるものでしょう。感じているという事実は事実。本当にあるもの。
人ってみんな、
どうなるかわからない未来のために、その未来がなるべくよくなりそうな方法をいまやってみる。けれども、それって超当てずっぽうな博打だよ。なのに、それが博打であることに気がついていない。
「お祝いをしなかったことを後悔している」という友人も、「より良い将来のために大切な人を後回しにしてそのときは仕事をする」ことをしてみたわけでしょう。その結果、想定外の未来が来て後悔している。博打でいったら大外れですよ。
それよりも、「いま」確実に感じている「大切」「やりたい」「だいすき」「話したい」「会いたい」に従って行動する方が確実じゃない?だって確実にわかっている感覚をもとにした行動だから、当てずっぽうじゃないじゃん。そこにあるもの、のとおりに行動するから、確実よね。外れなし。
…ってわかってはいるのに、ついつい忘れて、
大切な人や大切なことを後回しにしたり、大切なことを一旦横において効率の良さそうな方法をやろうとしちゃうんだよね。
それが人間。
でもそのたびごとに「リマインドさせる」出来事が起きて、「あぁいけない。大切なことを忘れていた。後回しにしていた」を思い出させてくれる。
そう、本日の西城秀樹さんの訃報のように。
このところ「将来のために」「未来のために」とキープしようとしていた時間とお金があったんですよ。
でもそれ、違うわ!うっかり間違うところだった。
その時間とお金は「いま」大切な人と物事のために「いま」使おう、っと。
というわけで、
会いたい人に会いに行こう。伝えたいことをちゃんと伝えよう。一緒に時間を過ごしたい人と時間を過ごそう。堂々とそうすることに決めました!◎
そうやって、何が起きてもどのような出来事が展開しても、
「後悔しない人」になってゆくのです。なれるのです。
❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験