最近、親友たちが名言を連発してくれている。
こんなコラムを書いているわたしと長く付き合っているような友人たちだからかな、とにかく「それ!」というフレーズをくれる。
タイトルに書いた「わたしたちにはエクソシストがついてるね!ラッキー」とフレーズも友人から送られてきたもの。もう最高ですよ。
「エクソシストがついていてラッキー!」ってどんな状況だよ!?と思うでしょう。笑
話を遡ると、
この友人が「いかにも似合わないこと」をしようとしていて、そのときまわりにいた友人たちが「本当にそれでいいの?」と突っ込んだことで、本人が目を覚ます!ということが、つい最近あったのです。
本人も、本当はそれが自分に似合わないことに気がついていて、なんなら自分の本心でも「本当はそれは好みではないなぁ」と気づいていたこと。しかし、なぜかうまく話がすすんで、好みでないそれを「ありがたくやらせてもらえる」ような状況になっていたのです。
しかもこれが「世間的に見たら、キラキラしていて華やかなこと」だったの。
そんな「まわりから華やかに見られること」を「とんとん拍子で自分がやれることに」なった。
こうなると、条件は良い感じがするでしょう?だから、本人も「やります」って言いかけていたのだけれど、
自分の心に尋ねたらやっぱり「好みではないなぁ」だったらしいのです。
そして、友人という第三者の目からわたしが見ても、「いや、似合わないなぁ」と感じることだったのです。
しかしもう「やる」って一度は返事をしてしまったし、「華やかで良さそう」だから、本人は「やる方向」に進もうとしていたのだけれど、
やっぱりどうしても、違和感があったのでしょうね。
その話を聞く前から、その場に到着した友人の表情がまさしく死んでいて、「どうしたの?」って聞いたほどだったもの。
そしてその話を聞いたときに、居合わせたみんなが「ほんとうにいいの?」「本当はどうしたいの?」と聞いたら、本人の本心が出てきたの。「やっぱり好きじゃない」って。
そして、「なんでそんな好みじゃないことを選ぼうとしてたかというとさ、「華やか」なやつをやってみたかったんだもーん。でも違った!スカして似合わないことしようとしてたわー」って白状しながら最後は笑っていました。
このね、
「華やかな方に憧れてみたけど、やっぱり間違ったぜ!」って白状できることが素晴らしいと思うのです。
ひとって、自分が間違えたことや、「華やかな方に憧れちゃった!てへ」みたいなことって、なかなか自分で認められなかったり、ましてやひとに白状することができなかったりするでしょう。
間違いを認めることや、似合わないものに憧れた気の迷いを自覚したり白状することは、「恥ずかしいこと」と感じがち(わたしたちの中にある「エゴ」がそう感じさせる)だから、なかなか難しい。
でも、その恥ずかしさを乗り越えて、自覚して白状までできたら、
似合わない方や、本当は自分が望んでいない方に進まなくてすむ。多少進みかけていても「やばい!違った」というわけで引き返せる。
でもここで、本心が望んでいない方へ進み続けたり、意地で引き返すことができなかったりすると、
どんどん「本当の自分」が死んでゆくんだよ。
そうやって、「本当の自分」を殺して失って、でも生きているひとがとても多いように感じています。
世間から見て良しとされていること、常識から見て正しいこと、そういうものに自分を一生懸命当てはめてしまう。
よくあるわかりやすい例だと、
「良い会社に入ることが良い」「ステキなひとと付き合うことがかっこいい」「結婚するべき」「子どもを産むべき」「こんな仕事がかっこいい」「こういうライフスタイルが理想である」「こういう食事が身体に良い」…等々。
日常のどこまでも、どの話題に関しても、
「こうすべき」「これが良い」「これが理想」がすでに公に掲げられている。そしてSNSもあるものだから、それを取り入れている、あるいはそのような暮らしをしている姿を「ステキ風に」見せてくれる人もたくさんいて、
そんな情報ばかりを取り込んでいると、次第に「それが良いものである」って洗脳されてゆくんだよ。
そしてそう洗脳されると(というか、自らそのような情報を目にすることで、自分で自分を洗脳している、というのが正しいけれど)、
本当の自分を殺してまで、「良いと思い込んでいるもの」を取り入れて、その形を演じてしまう。
正しいとされていることや理想をされていることを演じていると、
周囲から好評価されるかもしれないし、いいね!がもらえるかもしれないけれども、
心の深いところでは「幸せ」を感じられないんだよ。まぁ、つまり不幸。
そしてそんなことばかりをしていると、
だんだん本当の自分と、理想とされていることを演じている自分が切り離されていってしまう。
心と行動も結びついていかない。
だから地に足もつかない。
…となっていって、だんだん亡霊のようになるのです。
亡霊のようになるから、表情が死んでる。亡霊だもん、死んでるでしょ。
地に足がつかない感じも、足がないという意味でまさしく亡霊。
だから、そういう生き方をするのをやめようね!という話でまとまっていたのです。
亡霊みたいな生き方はやめよう。世間の正しいや理想に当てはまらずとも、魂が死なない、生き生きと生きられる選択をしてゆこう!と。
しかし、人間だもの。
たまには気の迷いが起きたり、華やかな方や自分の意には反しているけれど理想とされている方に引っ張られたりすることもあるのです。
そんなときに、
「ほんとうにそれでいいの?」と聞いてくれる友人がいると、「あ!」と自分で目覚めることができるし、
恥ずかしさやダサさも披露できる友人がいてくれると「あやうく間違いかけたー!恥ずかしいー!てへ」を認めて、戻ってこられるのです。
そう、そういう友人がいたら、亡霊にならなくて済む。
気の迷いで亡霊になりそうになっても、「目覚めなさい」と祓ってくれる。
そのような存在はまさしくエクソシスト。
気の迷いという悪魔を祓ってくれるんだよ。エクソシストですよ。
というような話の運びで、
タイトルのフレーズが出てきたのです。
「エクソシストがついている!ラッキー!」
今日も本当の自分で生きよう。
亡霊にならずに、本当に生き生きと生きている自分で、生きよう!
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