あるひとつが創れたときに

いつも、「現実は創れる」とか「ノートを書いたら叶う」とか、そんなことばかり言っていて、
もちろん自分ではそれを信じているし、だからこそ人に伝えているのだけれど、
思い描くことや願うことのスケールが大きいときはさすがに「これはどうなるのかな?」「こんなことも叶うかな?」と不安や心配が多少は紛れることもあります。いや、ありました。

「こうなったらいいな」が浮かんでしまうけれど、
「どうしたらそのようになるのか」の過程がまったくわからないこととかね。
だって、過程はまったくわからないのに、こうなってほしいと願ってしまう。
そりゃ「どうしたら良いかわからない」という謎が生まれて、それゆえ、「本当に叶うのかな…」という心配や疑いが生まれるでしょう。

 

でもね。

「どうやったらそうなるのかわからないこと」も、本気で望んでしまったら、心(本心)に浮かんでしまったら、なぜかちゃんと「そのように」なりますよ。絶対に。

 

 

…ということで、クアラルンプールなう。

 

 

先日のティーパーティーでは、具体的なことやこうなったプロセスをお話したけれど、
いつだか(といっても半年も経っていない)のノートに書いた生活や暮らしが、
いま、目の前に現れています。

自分でも驚いているほど、願ったとおりノートに書いたとおりの状況が現れて、うまく言葉になりません。
そして夜、寝る前に窓からの景色を見ていると、本当に泣けてきます。
景色がキレイとか状況がうれしい、ということはもちろんだけれどもそれ以上に、
「現実は創れる」ということを確信して、
世界の完全ぶりや、人間の力、意識やエネルギーの持つ力を確信して、そのパワフルさに泣ける。
そしてその結果、このような景色を見られるということに、これまた泣けます。
そして、これまでに感じたことのないレベルでの「幸せだなぁ」という幸福感を味わっています。

もー神様!宇宙!大いなるなにか!本質の存在!なんて表現しても良いけれど、とにかくありがとう!もうヤバいよね、これが「悟りの境地」なのでしょうか(おそらく違うけれども。笑)。

 

 

この世界すごい。
人間も意識もエネルギーもすごい。
それを上手に使ったときに見ることのできる景色がすばらしい。

 

 

東京にいるときよりも時間があるから、このコラムもたくさん更新しようと予定していたのに、
うまく言葉にならなくて、書けていません。

 

願う→ノートに書く→現実がそうなる

というだけなのだけれど、それが、
願ったことのその内容、が内側の内側の本当に本心に従ったことであって、
そのとおりの現実が展開したとき(つまり願いが叶ったというとき)に、
ひとは言葉を失うらしい。

そして満たされきっていると、「こうしたい」「次はこれを」というのが一旦浮かばなくなるらしい。
これはきっと「一旦」なのだと予測しているけれど、
「願う→ノートに書く→現実がそうなる→満たされる」
の次にまた、
「→願う」
にすすむには「そうなった現実を味わう、満たされている感覚を味わうための時間」が用意されているのではないかと感じています。そしてその「味わうための時間」は完全に気持ちが満ちていて、飽和状態だから、次の願いや望みが発生しない。これは自分がその段階になってみて、はじめて気がついたこと。

「願う→ノートに書く→現実がそうなる」が「動」の期間だとしたら、
「満たされる→味わう」は「静」の期間。

 

動と静、どちらも体験してどちらも味わいつつ、それを繰り返してゆくのだと思います。
そしてそのたびに、創りたい世界がどんどん完成してゆく、ひろがってゆく。

 

 

今日のコラムは内容がないけれど、
いつも言っている、「現実は創れる」を完全に確信したということと、
現実が創れたときにどのような感覚や気分が起きるのか、
のご報告でした。

 

 

 

 

やっぱり言うよ。
「現実は創れる」
これはもう、絶対に。

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

 

 

 

 

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