こちらへ来てさっそく、留守宅を預かっているのですが、
あまり…というかまったく困っていません。
自分でも「どうしたもんかな?」と感心するほど、普通に暮らしています。
このまえのランチに、ローカルな定食屋さん(これが美味しかった!)でバナナの入っている甘いロティ(ナンの薄い版みたいな。チャパティみたいな。でもなんでもチャパティでもないやつ。とにかくあのような種類の小麦の食べ物←説明が雑。笑)を頼もうとしたのだけれど、これが英語で言ってもいまいち通じませんでした。
そしたらスタッフが「ロティ ピサン?」と聞いてくれたの。
で、すかさず「そうそう!yes.ロティピサン!」ということで無事に注文できた。のだけれど、一緒にいた彼には「なんでわかるの?」と聞かれたよね。
そりゃそうだ。いきなりマレー語を理解した風なのだもの。笑
実はインドにハマる前に一時期、バリ島にハマっていたことがあるのです。そのときにインドネシア語やインドネシアの料理に興味が湧きすぎて、すこし勉強したことがあったんだよね。
そして、インドネシア語とマレー語はけっこう似ている。
だから、ピサン=バナナ、を思い出せたのです。
家で急にwi-fiが繋がらないことがあっても「まぁこんなこともあるかな」とのんびり受け入れることができます。これはインドで散々、「電車がこない」「電気が止まった」「お湯が出ない」を経験してきたから。だいたい「待っていたらどうにかなる」ことがある、というのを知っているから、wi-fiくらいかわいいものなんですよ。お湯が出ない、よりは喫緊ではないの。
そして案の定、翌日にはwi-fiは普通に復活していました。
日本にいるときもわたしはHimalayaというインドのコスメを超愛用しているのだけれど、こちらにはその店舗があるので、アメニティの類を手ぶらできたけれど、いつものやつ(なんなら新製品も!)が手に入ってバンザイです。
わたしはお料理が好きだから、いつもの八百屋さんでお野菜を買うときに見たことのないものがあると「へぇーこれなに?どうやって食べるの?」ということをずっとやっていたの、日本で。
それが功を奏したようで、いまこちらのスーパーで買い物をするときに「日本では一般的でないらしい野菜」があってもけっこう予測のつくものが多いんです。「あれと同じ種類の豆かな」とか「あの青菜の大きいバージョンかな」とか。そしてその予測がけっこう当たっている。
そんなこんなで、けっこうというかだいぶ、普通に暮らせている。
これ、自慢じゃないよ。
なにが言いたいかというと、
常日頃から、自分の好きなものや興味のある物事で周りを埋め尽くしておくと、どこに行ってもなにがあっても大丈夫だよ!ということ。
好き!興味がある!で身につけたことは、絶対に自分の身についている。
そして、それが活きるときが必ずくる。
だいたい、「好き」「楽しい」なことを積み重ねて行くと、「好き」「楽しい」に沿った道しか展開しないでしょう。
で、その道というのは自分の「好き」や「楽しい」をベースにして作った道なわけだから、その先だっておなじような「好き」や「楽しい」から発展した道になるじゃん。
だから、ベースの「好き」「楽しい」は自然と活きてゆくわけですよ。そして、ベースがあるから、展開したさきの道もあまり困らない。
もちろん、不便なことや「どうしよう..」なことも起きるけれども、どうせ「好き」や「楽しい」をベースにした「うえでの」チャレンジ案件だから、挑戦したら解決できてしまいます。しかもその挑戦がさほど苦にならない、なぜなら「好き」や「楽しい」がベースにあるうえでの挑戦だからね。
日頃から、自分のまわりを「自分の好き」で埋め尽くしてゆくんだよ。
そうしたら「自分の好き」に囲まれたまま、環境や状況が変わってゆく。しかしいくら環境や状況が変わったとしても、中心にいる「自分」と「自分の好き」は変わらないから、自分はいつも自分のまま、困ることがなく、どこでも暮らせていけるのです。
これが「誰かが良いと言ったもの」や「日本で流行っているもの」に囲まれた自分だったとしたら…と想像すると、こわいよ。その場合、「良いと言った「誰か」」や「「日本で」流行っているもの」の「誰か」や「日本」という外側の要素が変わったときに、自分はまた「新しい」外側の要素に合わせていかないといけなくなっちゃうから、困ってしまうじゃん。
そうすると、「いままでと違う」とか「あの人はこう言ったのに」とか「日本では云々…」という文句を言いだすことになるよね。
そんなの、わたしにとってはすごくストレス。
どこにいても、なにがあっても、
自分は変わることなく、楽しく暮らせるのがよくないですか?わたしは絶対そうありたいの。
それには、日頃からどこにいても「自分の「好き」を周りに埋め尽くしてゆく」と良いのだと感じています。
好きなことをしたり、楽しいと感じることをしたり、好きなものを集めたり、
そんなのは一見、無駄に見えることもあるかもしれません。
一時期ハマっていた、わたしのバリ島そしてインドネシア語だって、
熱が冷めた後は「あれを勉強した意味あったのかな?」とか思ってしまいがちです。ハマっている最中ですら「こんなの知って何になるの?」ということがある。
そして、そんなことを勉強したり、お金や時間をかける暇があったら、もっと「有用そうな」資格をとったり仕事をするべきだ!という考えが一般的かもしれません。
だいたい「目的もなくインドに1ヶ月旅行」なんて無駄の極みに見えるでしょう。笑 そんなことをしていないで、ちゃんと日本で良い会社で働きなさい!貯金をしなさい!というのが大多数の世間の常識かもしれません。
しかし、その一見「無駄」に見えるすべてが、いまのわたしの助けになっています。
してきた経験すべてが生かされて、いま、今日、困ることなく暮らすことができてる。
(もちろん、このような流れや環境をととのえてくれた人、わたしがなるべく困らないように準備してくれた人には、心底多大なる感謝をしています。ありがとう♡しかし、どんなに環境をととのえてもらったとしても、実際にその場で行動したり暮らしたりするのは「自分自身」でしかないの。その自分自身がその環境を楽しめるか、文句を言うか言わないかは自分にかかっている、自分次第ですからね)
だからね、無駄なことなんてひとつもないんだよ。
自分が「好き」「楽しい」「知りたい」で積み重ねたことは、絶対になにひとつ無駄にならないよ。
だから今日も堂々と、「好きなこと」「楽しいこと」を積み上げて自分のまわりを、そして自分自身を作り上げてまいりましょう。
❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験