やっちゃう人を信じてる

最近、色々な仕事や活動を色々な人としたり、それについての話をすると、
ひとは2種類に分かれるのだなぁ、とつくづく思う。
その2種というのは、
やる人とやらない人。
ただそれだけ。

 

「えー楽しそうですね!行きたい!」と言って、実際には来ない人もいるし、
何も言っていなかったのに来る人もいる。
「これがこうでこうだからそれは難しい」といかにも、そしてたしかに「それらしい」理由をつけて、やらない人もいるし、
「よくわからないけど面白そうだからとりあえずやってみよう」とやってしまう人もいる。

 

どのタイプが正しいとか間違っているとかいうことではない。
どのタイプが成功するのか、ということも無いと思う。なぜなら「成功」というものの定義も人によって違うから。

「やってしまう人」というのは、身をもってトライするぶん、リスクもあるし心身ともに傷つく可能性だって高い。しかし、そのリスクを払ったぶん「経験」は絶対に得られる。その経験は「うまくいく展開」の場合もあるし、「失敗しちゃった…」という場合もあるから、なんでも経験すること良いとも悪いとも言えない。

「やらない人」というのは、危なそう、うまくいかなさそうなことはやらないから、リスクがないよね。心身ともに傷つく可能性は低い。結果がだいたい見える範囲でしかやらないわけだから、見える結果にしかならないの。だから「失敗しちゃった…」は起きづらくて、「経験」は積まれないのだけれど、まぁ安全。

 

でも。そこに好みはあっていい。

「わたしはこういうタイプである」
「やってしまう方が楽しい!」あるいは「安全な方が安心できてうれしい」
「こういうタイプの人が好き」

この好みは自由に持っていていいし、そもそも自分はどっちのタイプであるかは自覚していた方がいいと思うよ。

 

「やってしまうタイプ」の人が「やらないタイプ」の集団に紛れていると、
「もっと安定した方法を選ぶべきだ」という大多数の好み(その集団においてはそっちが好まれているわけだから、自ずとそれが大多数になる)に同調させられそうになって、その結果辛くなるし、
反対に「やらないタイプ」の人が「やってしまうタイプ」の集団に紛れていると、
「行動力がないね」とかいわれちゃってこれまた辛くなるでしょう。

 

それぞれ自分が「どういうタイプであるか」を自覚していて、
「わたしはこういうタイプ、あなたはあなたのタイプで好きにして」と言えるくらいの距離感での付き合いだったり、お互いを尊重することができればいいけれど、
そうはならないのが人間、人間関係だったりする。
身近にいる人には、いや、身近にいる人こそ「自分と同じ感覚であってほしい」と思いがちだものね。

 

だから、自分はどっちのタイプであって、どういうタイプの人が好きなのか、をひたすら自覚しているのが良いと思います。
自分のことをひたすら知っておく。そうすることで、相手に「押しつけ」をしなくてすむ。から、関係が良好に保たれる。

 

 

 

最近ね、「これはこうだからできない」「今はこういう状況だからできない」と言う人と会話をしたの。
それがそれが、わたしにとっては「こいつ、おもしろくないなー」だったのです。
たしかに、冷静に状況を見たらそうなのかもしれない。難しいことであるのは間違いない。
だからと言って「できない」と言うのではなくて、「じゃあどうしたらできるかな?」を考えてしまう。そしてやってしまう人、がわたしは好き。うまくいくかなんてわからないけれど、やってしまって、その「やっちゃう姿」をおもしろく見せてくれたら、その結果が仮にうまくいかなかったとしてもそれでいいのです。わたしはそれが好みなんだよね。

 

冷静に「こういう理由でできない」と言う人は失敗することもリスクも、傷つくこともないかもしれない。
やってしまう人は失敗するかもしれない、と言うリスクがある。

 

それでも「やっちゃう人」の行動力のほうにわたしは信頼がおけるのです。

 

「結果」を信頼しているのではなくて、
「行為」や「過程」を信頼しているんだろうな。

気づいてしまったからには、これからは「やっちゃうタイプ」の人とますますおもしろい世界を創ってゆこうっと。

 

 

あなたはどっちのタイプ?

 

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

 

 

 

 

 

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