正直に生きる、は面倒くさいもの

今日も「正直に生きる」「するとこんなことがある、あったよ」という、毎度のお話をしていたのだけれど、そうしたら、
「正直に、ということを意識していると、自分がいままでこんなに嘘をついていたのか!?と凹むことがないですか?」と質問いただきました。

 

ありますよ、あります。というか、「こんなに!?」というほどある。
嘘をついている、というか、ごまかしたり無意識にやってしまっていたことがね。
ここまで生きてきた数十年、まわりに合わせたり場の空気を読んで「集団に合わせて生きる」ことに慣れてきたんだもん、集団に合わせる>自分でやってきたわけだから、自分のことは後回し、つまり自分に正直に、ではなかったはずだよね。

それが急に「正直に生きる」をやりだすと、これまで見たこともなかった自分が一面もあらわれるし、それを目の当たりにして、驚いたり凹んだり落ち込んだりします。
見たくなかった自分の一面がたくさん見えてくる。から、凹むよ。

 

できるタイプだ!と思っていたのに、思っていたほど頑張れない、というのが正直なわたしだったり、
できるけれどもやりたくない!というとてもわがままな面があらわれることもある。

 

そうして知らなかった自分を知ってしまって、驚いたり落ち込んだりするのも正直なこと。
だから、ちゃんと目の当たりにして、ちゃんと凹む、ちゃんと落ち込むのが良いです。

「こういうところもあるけれども、それでもいいんだ!それがわたしだから!」って素直に思えるときはそれでいいけれど、
「えーこんなところもあるのか」「いままで見ないようにしてたなぁ」という気持ちが湧いた時に、「無理にポジティブに解釈しようとする」ことはこれまた「ウソをつく」ことになりますからね。

 

 

でもって、どんなになるべく正直な選択を選び続けたとしても、
昨日良いな!と思ったことが、
今日になったら嫌だな!と感じることもある。
昨日は「良い」と感じたことが、今日は「嫌」になっていても、昨日の良いも今日の嫌もどちらもウソなく正直なこと。だったら、もうしょうがないよね。だってどちらも正直なんだもん。
それによってまわりを巻き込むかもしれないし、「ブレてる」と批判されるかもしれないけれども、
それでも「自分の今日の嫌」にウソをつくことはできない。

「正直に生きる」を実践していると、
そんな、面倒くさい自分にどこまでも付き合ってゆく、ということが必要になります。だから面倒くさいのよ。ウソをついて生きる方が、圧倒的に楽ですよ。表面上はね。

 

それでも、面倒くさくても、どこまでも自分に付き合ってゆくと、
ごほうびとも思えるような完璧な世界と出来事が起きるんだよ。

 

知らなかったり、見たくない一面だったり、ブレてるの?と思うほど変化してゆく自分に、
どこまでもおつきあいしてゆくこと。この面倒くさい作業が「正直に生きる」といううえでかならず必要になることです。

 

 

いま現在わたしも、「これまで当たり前にだいすきだと思っていたこと」への興味が薄れてきていて、自分でもびっくりがっかりしているところです。びっくりするけれども、気づいてしまったらもうウソはつけません。だから粛々と現実も正直に動かすのみ、です。戸惑いつつも。

ひとは「変化するもの」だから当たり前だししょうがないんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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