今日は、ひとから嫌われそうなことを書くよ。
でも本当の、正直なことばかりだから、しょうがない。本当のことだもん。
今夜は隅田川の花火大会でした。
ここから、夏本番な東京では様々な花火大会が開催されてゆくよね。
わたしも花火はだいすき!これまで毎年、夏に3〜4ヶ所ほどの花火大会に出かけています。
でも、
混雑する場所や「立ち止まらないように」というアナウンスで急かされる場所はすごく嫌い。絶対に嫌なの。混雑する電車だって嫌なの。
でも花火は好きだから見たいの。
ものすごくわがままですよ。
そんなわがままだから、
数年前の隅田川花火はバイクでドライブしてもらいながら見たことがあった。バイクだと電車の混雑も歩行者の混雑もないし、「ここがいいな!」と思ったところでは、その辺に駐車して立ち止まって見られるから。
しかしバイクを出してくれる人がいなくなって、「どうしたもんかな?」と思っていたら、
今度は「屋上から見えるからおいで」という人が現れた。場所は浅草。だから、ものすごくばっちり見える。ひとの家、だから飲み物も食べ物も用意していただいていて、ものすごく快適に鑑賞できます。
バイクから、ひとの家にお呼ばれ、で、快適度はステップアップした感じよね。自分の望みにますます近づいている。
けれども、「ひとの家に呼んでいただいている」だから、そこまでは出向かないといけなくて、
混雑している電車は絶対に乗る気がないから、このときは車で行ったの。ラッキーガールだから、一番近いコインパーキングに駐車できたのだけれど、
そうすると、乾杯程度のビールもいただけないし、帰り道はすこし渋滞しちゃう。
同じ年、別の大きな花火大会へもご招待いただきました。いわゆる「関係者席」への招待をいただいて、おそらくその河原で一番よく見えるお席。飲み物や食べ物もどんどん出していただける。
とっても楽しくて、ものすごくありがたかった。ありがとう!
なんだけど、現地までたどり着くには電車一択しかなくて(近隣にコインパーキングが無い&交通規制が厳しい)、しかも河原から駅までが徒歩30分弱かかったの。そして帰路、疲れちゃったの。
どのシチュエーションも、ものすごくありがたい話で、
ご招待がない人からしたら「それで文句言うな」と怒られるような内容だろうけれど、
「ありがたい!うれしい!楽しい!」
けれども一方で、
「こういう点は不便だなー不快だなー。もっと快適にいきたい!」
という欲と素直な感想があったのも事実。
ここで、
「こんなにありがたい話なんだから、文句を言っちゃいけない」
「もっともっとを望むなんて良くない。贅沢だ!」
って、自分が感じたことを自分で押さえつけなくていいんだよ。というか押さえつけちゃだめ。
「自分が感じたこと」はすべて事実なんだから、自分だけは自分の味方で居続けたらいいよ。
かといって招待してくださった人に「呼んでいただいたのはうれしいですけれど、混雑した電車で来るのは本当に嫌なんですよ」なんて余計なことはもちろん言わなくていいから。そんな無粋はだめ。
ここで、satya(正直に)とahimsa(傷つけない)を使うんだよ。
自分が感じたことは「自分で」正直に受け取る、
それと同時に相手の気持ちや行為を傷つける余計なことは言わない。
この両方をやるの。
で、そういうわけで、
花火を見るのは好き!見たい!
もっと快適に!
混雑は嫌だ!
混雑した電車は嫌だ!
かといって車で行って乾杯すらできないのも嫌だ!
暑いのも嫌ー!
事前に席や屋形船を予約するのもめんどくさいー!
という、さすがに申し訳なくなるくらいのわがままぶりを発揮したのです。
さすがに、わがままややりたいことをやり通しているわたしでも、
「さすがにこれはわがまますぎるかな。ふざけてる…」って恐縮、自覚するほどのわがままです。
でも、恐縮する一方で、「そう感じちゃってるんだからしょうがないじゃん」「そう感じる、ということは、わたしはそのわがままにふさわしい人間なんだな」って、どこまでも自分のことを認めてあげてきたの。
こんなこと、他人に言ったら「ふざけるな」「何様だよ?」「贅沢だ!贅沢を言うな」って言われてしまうかもしれないけれど、
どんなにまわりがそう言ったとしても、わたしはわたしの感じたことも希望も認める、って決めたんですよ。
そしたらね、
今年ひょんなことからやってきた(というかノートに書いたらそうなったという)あの家が、
部屋から目の前に花火が見えるんですって!高層だから、本当に目の前に花火、らしい。
混雑なし。出かける必要なし。乾杯できる。快適。涼しい部屋から。目の前に花火。
なんだよね。もう願ったとおりがきたよ!
というわけで、2018年の自分新常識。
“花火は家から見るもの”
バイクドライブ→おうちや関係者席にご招待いただく→家から見るもの
ここまでステップアップいたしました。
こうなると、「人混みや混雑を我慢してまで花火に近づかなくていいや(どうせ家から見えるやつがあるし)」という妙な余裕ができて、
今年ははじめて、隅田川の花火をテレビ鑑賞しました。これまで「テレビで見るなんて邪道だわ」とか思っていて、どこかしらまでは出かけていたのに、はじめてテレビの前で余裕で見ていられたの。
「どこかに見に行かなくちゃ損!今日しかないのに!」みたいな焦りが全くなくて、「見たいやつは見たいときに快適に見られるしなー」という余裕ぶり。
「損だから行かなくちゃ!」という、欠乏感からの行動ではなくて、
「見たいやつを見たい状況で見る。それが満足」という、本当の望みや目的に向かった行為を選べるようになった。
それは「花火の見える家が現れた」から感じることができるようになった余裕だけれども、
じゃあ、どうしたらそんな家が現れることになったかというと、やっぱり、
「自分の望みや希望をどこまでも自分で認め続けた結果」だと思うんです。
ものすごくわがまま、とか、ものすごく贅沢、という自分の腹黒すぎる側面はついつい見て見ぬふりをしがちでしょう?
自分のことを、そんなわがままだと思いたくないし、そんなに腹黒いやつだと信じたくないし、もっと優等生でいたいし、もしも自分がそんなわがままだとバレたら誰かに怒られたり嫌われたりしてしまうかもしれない…怖いし、そんな思いがあるから、自分のことを「そこまでわがままじゃない人」ということにしたくて、そういう側面を見て見ぬふりしてる。
本当はすごくわがままで腹黒いのに、ね。
でもね、自分のそんなわがままで腹黒い側面を自分で受け止めて、
はじめて願える望みや夢があるんだよ。
そしてそうやって、「自分で自分が認めてあげた望みや夢」はどんなにわがままで腹黒くても贅沢でも、ちゃんと現実にそうなるの。
見たくない自分の側面をちゃんと見てあげる、そうすると居心地が悪い感覚も生まれるけれど(だって自分はそんなに腹黒くない優等生だと思いたいから。思いたいのに、実際はそうじゃないから居心地が悪かったり恐縮するように感じるの)、
その居心地の悪さを自分で引き受けたぶん、ちゃんと現実にごほうびのような「望みが叶う」という現象がやってくる。
自分のわがままはどこまでも自分で認めてあげる。
どこまでも自分に付き合う。
あきれるほどのわがままを、自分で自分にあきれながらも付き合ってゆくと、
驚くような夢みたいな現実が来るんだよ。
2018年の自分新常識
“花火は家から見るもの”
こんなふざけたことを堂々と言っている人がいるのだから、大丈夫。
もっともっと、恐れずに、わがままに、贅沢なこともちゃんと望んじゃって!
❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験