“呼ばれる”という表現の違和感

ミラクルや不思議なことがだいすきで、そんなことばっかり言ったりやったりしているわけですけれども、
そういう不思議なことや思想、目に見えないものやスピリチュアルな何かだけをアテにしたり、それらだけが「すごい!」としたり、それだけに傾倒している人たちは好きではありません。

でね、今回奈良へ呼ばれて行ってきたのだけれど、
このように “呼ばれた” と表現することにずっと違和感がありました。
よく聞く表現ではあるけれど、どこか腑に落ちていなかったの。

 

実際に今回の奈良は、
「もう居ても立っても居られない!行く!」という、これまでに体験したことのない衝動が起きて行ったもの。だから「呼ばれた」という表現はふさわしいような気もするけれど、どこかスッキリしなかった。

 

これは、「呼ばれた」という表現をすることで、
「行くことにした」あるいは「行った」という自分の決断や行動の責任を逃れるような印象があるから、スッキリしないんだなということに気がつきました。

 

今回たしかに初体験の衝動があった。居ても立っても居られないほどの、行こう!という衝動が。
けれども、その衝動を受けた後に、
行くことに決めたのも、
「行く」という行動をしたのも、自分自身なんです。
衝動を起こした、感じさせてくれたのは、大きなる何か神様かもしれないけれど、
その衝動を受け取ったのも、受け取ったのちに行動したのも、自分自身以外の何物でもない。

だから、その行動の責任は自分にあるの。

 

目に見えない世界やスピリチュアルな何かに傾倒している人は、ここが甘い場合が多いように感じます。
自分の決断や行動までを、目に見えない何かの「せいに」しがち。

「呼ばれたから」行きました。
「占いにそう出てるので」こうします。
「星回りがこうなので」わたしはこういうタイプなんです。

というように、自分の行動も自分自身の素質もを神様や占いや星のせいにしちゃってる。

そんなのって、「上司が悪いから」仕事がすすまない、
「社会が悪いから」豊かになれない、
というのと何も変わらないじゃん。

 

自分以外の何かの「せいに」して物事をすすめても、
結局自分の望みどおりの世界は創れないんだよ。
その何か「せいに」する対象が、目に見えるもの(上司とか)でも目に見えないもの(神様とか占いとか)でも、自分以外の何かに責任を押し付けている時点で、自分の力を失っている。

 

本当は、自分にものすごい力があるから、
自分で現実が創れるんだよ。
そのためには、自分で自分の人生を引き受ける覚悟をもって、
自分の決断や発言や行動に責任を持つの。

絶対になにかの「せいに」しない。

 

そういうスタンスを取りながらも、
目には見えないけれども確実に在る大いなる何かや神様といった力も使うんだよ。
目に見えない力を借りて、後押しを受けて、
そして自分が決断をして行動するの。

あくまでも、決めるのもやるのも自分自身。

その結果として、現実が動いてゆくの。

 

 

何かのせいにしないように。
特に目に見えないもの、のせいにしないように。
安易に“呼ばれた”なんて言わないように。いや、実際に“呼ばれる”ような場合もあるけれど、“呼ばれた”のを受け取って、決断して行動したのは自分自身であることを自覚していられるように。

その意識をはっきりと持って、
望むとおりの現実を創ってゆきましょ。

 

こうしてだんだん、
目に見えない力の使い方と目に見える現実の創り方がわかってきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

 

 

 

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