クソな出来事とハッピーな出来事が同時発生したときに

24時間の間に、
死にたくなるほどクソみたいな案件と、
心底ワクワクする超絶ハッピーな案件が同時発生しました。

こういうとき、だいたい「クソみたいなほう」にひっぱられがちだよね。
だって、腹がたつし、悲しいし。そういう気持ちは引きずりやすい。
まぁ、その人自身の性格にもよるけれど、
わたしはわりとそういうところがある。いや、ありました。この前まで。「この前まで」というのは、
ついこの前までは、なぜこのような二極の出来事が起きるのか?の理論がわからなかったから、どうしてもクソみたいなほうにひっぱられやすかったのだけれど、
なぜこれが起きる?の謎が解けたら、さほどひっぱられなくなったのです。
(事件が起きたその瞬間はおそろしく怒り倒しますけれどもね。そこで「大丈夫です」なんて、感情に逆らった菩薩顔は取り繕いませんよ)

このような二極の出来事が起きたときは、
「このように二種類の世界がありますけれども、あなたはどちらの世界で生きますか?」
という、問いかけなのですよ。

自分がどういう世界で生きてゆきたいか、どのように暮らしてゆきたいか、を考えやすく、選びやすくするために、
わざわざ目に見える形でサンプルを出してくれる。
そのサンプルがこういった二極の出来事。

 

今回のわたしの場合、
前者のほうは「一般的な社会常識やステイタスで『良し』とされることを選ぶ。それが常識である。し、わたしもそちらを選んでいるのだから、あなたも当然そっちを選びなさい」を押し付けられそうになったの。常識という枠の中には収まっているけれども、その枠に相手をも押し込めようとすることで相手の意見や尊厳を「常識」という正当っぽい理由をつけて暗に傷つけている。
後者の方は「社会的な常識としてはぶっ飛んでいますけれど、だいすきなことを突き詰めたらこんなにおもしろいことになっちゃった!」というふざけているけれども、結果が出てしまった話。常識からははみ出ているけれども、愛はあるんだよね。だから、変わってはいる、けれども、人のことは傷つけていない。
おそらく、社会常識で良しとされていて周囲の理解も得やすいのは前者でしょう。
後者のほうは、叩かれることもたくさんあるし、良い意味でも悪い意味でも目立ってしまうから、様々なリスクもある。

だから、どちらが良いことでも悪いことでもないのです。
ただ、どちらが好みか、は個人それぞれが選んで良い。選べる。
そして「わたしが選んだのと同じほうを当然あなたも選びなさい」と、相手に自分の好みや選択を押し付けることはできません。

好みの相違、それによる選択の違いによって、
すすむ道が一緒にならなくてもいいんだよ。どうしても同じ道を歩まなければならない人なんて、自分以外にひとりもいないよ。
むしろ、死ぬまで一緒にいるしかない“自分自身”とはずっと同じ道を歩んでゆくわけだから、
“自分自身”の好みは何よりも尊重してあげなくちゃ!

 

死にたくなるほどクソな案件は、本当にがっかり腹が立ったけれども、
おかげさまで、自分が生きてゆきたい世界が明確になりました。
今回の事例でいうと後者の人のような、だいすきを突き詰めておもしろいことをしてゆきたいし、
この後者の人たちがいるような世界で生きてゆきたい。
そもそも、この後者の人の生き様がわたしはだいすきなんです。好み。
だからわたしは、後者の世界に暮らせるわたしになるよ!と、改めて確認、決意することができました。

 

ここまでくると、クソな案件すらも「起きてよかったこと」。
だからといってクソな案件やその世界に「ありがとう」をわざわざ言いに行くことはありませんよ。
「起きてよかったこと」その出来事を起こしてくれた、世界や宇宙の流れには大感謝するけれども、わざわざその世界に戻って「ありがとう」な関わりを持つことはしなくていいよ。

自分はこっち!と決めた方の世界で、楽しく幸せにやってゆくだけでいいの。それが、起きた出来事にも、二極の世界からどちらかを決断した自分にも、交わらなくなった世界にも、すべてに対する感謝の形になりますから。

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んでミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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