YOGAをする?

まわりにYOGAに関わっている人(先生とかスタジオやブランド経営者とか)が多いから、

この時期、「年始で太った〜YOGAしなきゃ!」とか「なまった身体をYOGAで整えて」的な投稿がTLにあがってくる。

そしてこういうのを聞くたびに、なんだか「?」気分になっています。(正直に言うと「?」どころではなく、「うるせーわ」くらいに思ってる。笑)

 

そもそもYOGAってなんでしょう?という話になると、

「YOGAはユジュという語源からきています。ユジュとは繋がるという意味で…」的な解説がはじまることがしばし。そして自分自身と繋がるとか、心と身体を繋げるとか、まぁそのような説明がなされることも多いよね。

それはたしかに間違っていない。

 

大昔の人(インド人という解釈が一般的だけど、歴史をたどったらインドにも流れ着いてきたものかもしれないからYOGAの起源がどこなのかは正確にはわからないけれど)が、

どうしたら解脱できるのかとか悟りを得られるのかとか、まぁマニアックなことを考えつくしていたところへ、誰かが思いついちゃったのか空からお告げのようにおりてきたのかわからないけれど、とにかくそこで生まれたメソッドがYOGA。

 

それを実践していったら、大いなるものというか神様というか宇宙というか、なんていう表現でもいいけれどとにかくそのようなものと繋がる感覚が起きるらしい(それを悟りとかいうのでしょうけれど)。わたしたち個人のなかにある小宇宙=これら大宇宙であるから、大いなるものと繋がること=自分自身とつながるということである。

すっっっごい端折ったけど、こういう理論で「YOGAとは繋がることです」って説明にたどり着いているんだと思う。けど、「YOGAとは繋がることです」っていう一文だけだったら、さすがに端折り過ぎじゃない!? 全くわかりづらいよね。

 

そしてそのYOGAメソッドの中には、心の指針や生活の仕方(それも出家した行者向けのものも在家の人向けのものも別バージョンである)、神様への敬意の払い方とか精神を統一するには、とか、まぁ色んな方法やパターンがある。そのなかの1つに、瞑想をやりましょう!というパターンがあって、瞑想をするための身体の準備にASANA(アサナ、アーサナ)といういわゆる体位、ポーズの練習があるわけです。

 

だから、いま現代人が一生懸命やっているポーズの練習は、YOGAのうちのひとつであるハタヨガ、さらにその中のASANAという超局所的、一部分にしかすぎない。

 

わたしはそう解釈しているもんだから、「YOGAする」みたいな表現に違和感がとまらないのです。

ASANAの練習をする、は◎納得。

YOGAのクラスに出る、YOGAのクラスを開催する、は◎納得。クラスにはいわゆる先生がいて、リードする場全体だから。ASANA以外にも、生活や心身に関することをお話もするし。その場全体をとらえてYOGAと言うのは納得。

逆をいうとYOGAの先生ってそれだけ重責だと思ってる。YOGAの全体や本質を体感体現できていないとクラスという場をリードすることはできない。だから、「YOGAインストラクター」という表現にも違和感があるんだな。インストラクションすればできる、ってものじゃないもの。ポーズを伝えるだけではなくて、言動の全てがYOGAの本質をとらえていないとYOGAなんて伝わらない。エクササイズとしてポーズを教える人だったら「ASANAインストラクター」が適切だね。

 

いちいち面倒くさいんだけれど、表面的なことやわかったふりなことをやりたくないんだよね。

そういうタイプなの。今年も、面倒くさいことをいちいちちゃんとやっていくぞぅ。ほんとのことをちゃんとやる。

 

YOGAがヨガなのかヨーガなのか、も言い出したらキリがないんだけれど、長くなったからそれはまた今度。

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