嫌な出来事をきっかけに自分を知ること

昨日、すごく落ち込むことがあって。

お夕飯を済ませたあとに、ちょっと散歩に出たんです。そしたら偶然、知人に会ったの。

わたしはいつも東京にいるときは、家やスタジオから出るときに、どこで誰に会うかわからないから、
「誰に会ってもまぁ大丈夫」な格好やメイクを準備してから出かけます。例え、“朝のゴミ出し”だったとしても、そう。ゴミ出しの時はばっちりフルメイク、ではないけれど、少なくともパジャマや部屋着のまま外に出ることは、ない。
下町といわれるエリアに暮らしているからかもしれないけれど、
うっかり外で誰かに会うことも多いし、そのうっかりばったり、が長話になることもあるから。
外で長話をするのに、パジャマや部屋着だったら恥ずかしいもの。だから、一歩でも外に出る時は「少なくとも外に出られる」準備をしてから出ます。

 

ちなみにこれは、「人の目を気にしてそうしている」とか「誰にどう見られるかを気にしている」というよりは、自分の中の美意識の問題ね。
なんか、ボサボサのダラシないまま、というのが「美しくなくて嫌」なんです。
ここの見極めってすごく大切で、
「誰にどう見られるか、人の目を気にしてそうする」ことと、
「自分はこういうのが好みだからこうする」ことは、
している行為が同じだったとしても、内側の動きは全く違うもの。
「人の目を気にしてすること」は、自分がやりたくてしていることではないから、続かなかったり、それをすること自体が苦痛になってしまいがちだけれども、
「自分の好みだから、したいからすること」は自発的なことだから、苦痛なくできる。
オシャレや、ゴミ捨てに油断した格好をしないこともそう。
だから、「人の目を気にして」のことか「自分の好みか」という、行為の動機を自分で見極めることは大切です。

 

…話がそれた!

 

そう、普段東京だったらそうなんですけれども、
毎日毎度、ゴミ出しの際ですら「出られる格好で出る」ことは、面倒くさくなることも大変に感じてしまうことも、そりゃあります。
どんなに「自分の好みだから」やっていることでも、面倒臭いことは面倒臭い。
面倒臭いけれども、自分のなかで、
面倒臭さと自分の好み(美しくないことが嫌だ)をいちいち天秤にかけて、でもやっぱり「美しくないことが嫌だ」が勝るから、
「面倒臭いけれども、格好をととのえる」
をしているのです。「面倒臭い」が消えているわけではないんだよ。天秤にかけて、勝るほうを選んでいるだけ(ちなみに「面倒臭い」が勝る日は、その次の天秤で、「美しくないまま外に出るか」「ゴミ出しを諦めるか」という天秤をかけて、勝るほうを選んでる。常に常にそうやって、「今の自分はどっちがいいの?」を選び続けています。まじで)

 

で、「面倒臭い」が蓄積すると疲れも溜まるんだよね。

そんなこんなで疲れが溜まってところでマレーシアに来て、
こちらではばったり会って長話をしてしまうような知人に会う確率が極めて低い、というかほぼゼロだから、
油断していました。あと、暖かい国だからか、適当な格好の人も多い(日本人ってなんてオシャレで身だしなみに気を使う国民なのか!といつも思ってるよ)。
だから、わたしが油断した部屋着のような格好をしていても、「だらしなさが際立たない」んですよね。そのため、東京では「このゆるい服ではさすがに外に出ないわ」という格好でも、こっちにいるときは近くのコンビニくらいだったら行ってしまう。
しかしこれは、「この環境においては、部屋着でもだらしなさが際立たない」だけであって、自分の中の美意識とかこう在りたいという理想から比べたら「いやぁ、やっぱりだらしなくて嫌だわ」というものなのです。

油断してたんですよ。まわりの環境に気が緩んで。

 

で、昨晩散歩に出るときに、
「まぁこれでもいいか」という格好で出たの。わたしの中では部屋着レベルの格好で。
まぁどうせ誰にも会わないし。
夜だし。
近所だし。
という油断で、ゆるりとした格好で出たら、
ばったり知人(日本人)に会ったんですよね…。

 

それでめちゃくちゃ落ち込んで。笑
「あぁ人に会うならこんな格好やめておけばよかった!億劫がらずにちゃんと着替えればよかったわ!」
って、後悔しまくったんです。

たったそれだけ?の出来事だけれど、わたしの落ち込みぶりはひどくて、
いかに自分が「東京じゃないから」と油断していたかをとても反省しました。

 

あんなに「美しくないことは嫌だ」と思っているのに。
その自分の気持ちや好みを、「面倒臭い」「油断」というそんな理由で、ないがしろにしていたことがとても悲しかった。

 

で、落ち込みまくって振り返って、
ふと考えたの。

「なぜこんなにも、そのときに適当な格好だったこと、美しくないこと、が嫌なのかな」って。
もちろんそこには「美しくないことは嫌い」という好み、美意識があるわけだけれど、
じゃあなぜそういう好み、美意識を持っているのかな、という、次の段階の深いところを考え出したのです。

 

そしたらね、
「堂々とできないことが嫌だ」というのが出て来たんですよね。
なんだか、パジャマや部屋着で人に会うことは恥ずかしくて、堂々とできない感じがする。極端な例を出すと、
裸のまま堂々と人前に出ること、は誰しも難しいじゃない?でも、お洋服を着ていたら、人前に堂々と出られるでしょう?そういう感じです。

 

それに気がついたら、さらにわかったんですよ。

昨晩、ゆるりとした格好で偶然人に会ってしまっただけで、「そこまで落ち込む?!」というほど落ち込んでいたけれど、
その根底には「堂々とできないことが嫌だ」がある。
「堂々とできない何か」がある、ということに。

で、あるんですよね。
今、自分の中で目標にしていた結果を出せていない仕事とか。
やりたい!やる!と言ったまま、疲労や気の緩みに流されてそのままにしている仕事や案件とか。
そういうものが、ある。

 

本当は自分がやりたくて、やる!って決めていたことなのに、
何かしらの理由をつけてやっていないことがあるから、
どこか後ろめたかったり、なんだか堂々とできない感じがしていて、
それがものすごく嫌だったんです。

 

だったらやれよ!という話。

そう、やればいいだけなのに、
体調が悪いから、とか、疲れているから、という体感があったから、やっていなかったんだよ。
たしかに1ヶ月ほど前には、体調もイマイチでどうしても疲れが抜けない時があって、
そのときには「休みが必要」で「できなくて仕方ない。できなくてよかった」んだけど、
時間や休養とともに回復してきたら、「そろそろまたできるぞ」という時がきていた。
そんな時がもうきていたのに、「体調に自信がないし」「疲れているし」に甘えて、「まだやらない」ままにしていたんですよね。

そんな状況でいたから、
「おい!いいかげんやれよ。もう出来る時ですよ」
をリマインドさせるべく出来事が起きた。

 

油断した格好で人に会ってしまう。
落ち込む。
「もう油断するのやめよう、本当にやめよう」と反省する。
「っていうか、なんで格好ひとつでこんなに落ち込むのかな?」を振り返る。
「堂々とできないことが嫌なんだ」という、自分の本質的なイヤイヤに気がつく。
「堂々とできていないことって何かあるかな?」を振り返ることになる。
「あの仕事、中途半端にしているのが嫌だなぁ。だったらやれよ!自分!」
いまやること、本当はやりたいこと、に自分で気がつく。

 

…という流れ。

 

だから、起きる出来事にはいちいち意味があって、
落ち込む出来事も、嫌に感じる出来事にも意味があって、
「なんでそんなに落ち込むのか?」「なんでそんなに嫌なのか?」を探り掘り下げ続けていくと、
表面的な嫌なこと(油断した格好のまま人に出会ってしまった)、ではなくて、
もっと本質的に嫌なこと(堂々とできないことが嫌だ。堂々とできなくなっている案件があるわ)、に気がつけます。

本質的に嫌なこと、に気がついたら、根本解決できるでしょう。そうしたら、根本からスッキリするよ。

 

 

起きる出来事の表面だけを見ないように。
表面で起きた出来事や気持ちをきっかけに、
根本の問題を見つけよう。そしてそこを解決しよう。

その根本の問題や気持ちを気がつかせるために、表面的に、ちょくちょく、小さいけれども嫌なことや気になること、が起きているだけだよ。

 

起きる出来事のすべてを、自分を知るために活かそう。

 

 

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んで良いこと!腑に落ちた!ミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験
循環起こして魅せましょう♡

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です