すべては自分のために

最近、LIVE配信アメブロでよく言っていることがある。
自分すら、その一貫した自分の思考やフレーズに気がついていなかったのだけれど、
配信の録画を聞き直したり書いたブログを読み直すことで、見つけることができた、自分の思考。

そしてこれは、とても大切なポイントだと思う。
わたしにとっても、みんなにとっても。

 

日々暮らしていると、常に何かしらの出来事が目の前で起き続けているでしょう。
ここは「無」な世界ではないから、何かしらが常に展開し続けている。

 

そしてその起きる出来事に振り回されたり、惑わされたりしてしまいがちなのが人間の特徴。

 

こんなことがあった!うれしい!
こんなことがあった。悲しい。
あの人にこんなことを言われた。むかつく。
困ったことが起きた。どうしよう。
この先どうなってゆくんだろう。心配。

 

基本的はこれで、「こんなこと」という出来事の部分がその都度変わって、
後半の、そこでの反応(うれしいや悲しい)の部分がまた変わってゆく。

というシンプルな構造なんだよね。これは普遍。

 

そして、
うれしい!から誰かに話そう。ちょっと自慢したい。SNSに載せよう。
悲しい。から誰かに慰めてもらいたい。気晴らしに飲みにでも行こうかな。
あいつむかつく。から仕返しをしよう。見返してやろう。文句を言おう。
どうしよう。不安だ不安だ…眠れない。
心配だ。…眠れない。心配を解消するために保険をかけよう。悪いことが起きないようにどうにかしよう。

 

というように、

出来事→それに反応した自分の感情→それを元にした行動

を繰り返しています。それが人間。

 

この仕組みが悪いわけではないよ。
「こういう仕組みですよ」ということ。

 

しかしずっとこれを繰り返していても、
出来事に合わせて反応する感情に振り回されて、さらにそれによる行動を繰り返していても、
とにかく大変だしそれは苦痛なことだから、その苦しみを終わらせようよ!という考えを元に生み出されたのが、「無になる」とか「心を穏やかに保つ」とか「心頭滅却」のような、

「無を目指す」系の修行。

瞑想とか座禅とか、まさしくそうだよね。
たしかにこれは有効だと思います。対象に合わせて自分の心や感情が乱されなければ、穏やかで苦しくなくいられるもの。

 

 

でもさ。
でもさ。

 

 

無理じゃないすか?笑

いや、修行を積めば「無理」ということはなくて、
「出来事に心が振り回されなくなる境地」にたどり着くことはできるでしょうけれど、
けっこう時間がかかるよね?
その境地にたどり着くまでは、やっぱり振り回されちゃうから苦しいよね?
修行するのも大変だよね?

 

そんなのやだー!
できる限りすぐに、いますぐに、楽になりたい!出来事に振り回されることのなく心穏やかに生きたい。

というのが正直なところなんじゃないかな?
(少なくとも、わたしはそう。笑)
ついでに言うと、
うれしい!とか幸せ!はたくさん体験したいけれど(だからそういう出来事はたくさん起きてくれていいし、ハッピーな出来事に振り回されるのは大歓迎だけれど)、
悲しいとか苦しいはあまり体験したくない。
というのが本音じゃない?

 

人間ってそういうものだと思うのです。

 

 

そして上記をもう一度読み直すと気がつくのだけれど、
「出来事に振り回されることなく心穏やかに生きたい」と思いながら、
「うれしい!や幸せ!はたくさん体験したい」って、
矛盾が生じてしまいます。

だって、出来事に振り回されなくなる、を目指すと、心の反応をストップさせることになるから、
悲しいや苦しいから逃れられる一方で、うれしい!や幸せ!にも反応できなくなるはずだもの。

 

うれしい!幸せ!は受け取って、
悲しい!苦しい!は受け取らない、
という器用なことができないの。

 

となると、
うれしい!悲しい!の両方を受け取るか、
うれしい!悲しい!のどちらも受け取らない、
どちらかしか選べない。

そして、「どちらも受け取らない」を選ぶなら、「無を目指す系の修行」を本気でやったら良いと思う。
そうしたら、心の反応の一切をなるべくとめることができるから。

 

一方で、「両方を受け取る」を選ぶなら、うれしい!だけでなくて、悲しい!も感じる覚悟をするしかない(うれしい!は覚悟しなくても簡単に感じられるでしょう。感じたいでしょう)。

 

ポイントはこのあと。
「両方を受け取る」覚悟をした上で、「それらに振り回されない方法」を探したらいいんだよね。

 

なんだかわからないけれど、
「感情が起きること」と「それに振り回されること」は当たり前にひとつになっていて、切り分けることができないと思っていないかな? というかそもそも、その「切り分け」なんてことすら考えたことがないんじゃないかな?

(しかし世界観察と人間観察が趣味なわたしはそんなことばかり考えているんですよ。哲学脳)

 

感情は起きる。それはしっかり感じる(うれしい!も悲しい!もプラスもマイナスも、ポジティブもネガティブも両方)。
そのうえで、それらに振り回されない、惑わされないようにすればいい。

 

 

…どうやってやるの?

 

 

そこですよ。

 

感情が起きたときに、
「その感情ゆえの行動」をとるのが人間。で、この「その感情ゆえの行動」というのが、
「感情を解決するための行為」になってしまうことが問題なんだよ。だから、振り回される。

良いことがあった→誰かに話したい。自慢したい。しよう。
不安なことがあった→不安を取り除くために、保険をかけよう。こうしよう。

というように。
感情を解決、消化するため→行為、行動
になるから、行為や行動がすべて「感情によるもの」になって振り回されるの。

 

ここで、
「感情(気持ち。感じたこと)の使い方」を変えよう。

 

まず、感情を次の行動にダイレクトに結びつけるのをやめよう。
何かを感じたら、それをすごく喜んだり嬉しさに浸ったり、思い切り悲しんだり凹んだりする。しっかり感じる、ちゃんと喜んだり悲しんだりして感情を味わう。
(悲しいや恨みは自分でも感じたくないことも多いけれど、そこからも目をそらさないで。だって「自分」の内側で起きている「自分の」「大切な」感情なんだよ。「自分から発生したもの」だよ。大事にしようよ。それが「自分を大切にする」ことなんじゃないの!?)。

そして、その感情が「なぜ発生したのかな?」を自分で観察するの。

 

例えば、
うれしい!や幸せ!を感じたときに、「なぜ発生するのかな?」を観察したらきっと、
「自分の望んだとおりになった」「希望とおりになった」「予想もしていなかった体験ができた!」
だから、うれしい!幸せ!を感じるんだ。
悲しい!苦しい!不安…を感じたときに、「なぜ発生するのかな?」を観察したら、
「思ったとおりにならなかった」「予想もしていなかったことが起きた」「想像もしていなかったことだからどうしていいかわからなくなってしまった」
だから、悲しい!苦しい!を感じるんだ。

という発生のメカニズムが見える。

 

これが見えると
「望んだとおりになった」と「思ったとおりじゃなかった(予想外だ)」があることがわかるよね。

つまり、
「こうあったらいいな。こうありたい」という自分の理想の世界と、現実に起きた出来事を照らし合わせて、
望みとおりだったら、うれしいな!と感じるだけだし、
望みどおりでなかったら、悲しい!苦しい!と感じるだけ、だということがわかるよね。

 

そしてこれを活かすの。

望みどおりでうれしいな!が起きたら、
「自分はこういう世界、こういうことが好きなんだなぁ」を再確認したり、もっともっと好みを突き詰めたりはっきりさせたり、さらなる好みを見つければいいし、

望みどおりでなくて悲しいな!が起きたら、
「自分はこういう世界、こういうことが嫌いなんだなぁ」を知って、「じゃあどういう世界がいいの?」という自分の希望や好みを知り直したり、起きたことと理想の違いがはっきりわかったら「じゃあどうしたら、希望や理想に近づくのかな?」を考えるきっかけにすればいいのです。

 

感情が起きる

解消しようとしてそのまま行動する

のではなくて、

 

感情が起きる

「なぜそれが起きたかな?」を一旦自分の内に持ち帰る。観察し直す。

自分の好みや望みや理想を見つける

自分の好みや望みや理想に近づくためにできることややるべき行動をする

ようにするの。

 

 

そう。
自分の望みどおりや理想の世界を創るために、
現実に起きる出来事とそれによって発生する感情を、使うんだよ。

自分の世界を創るために、
出来事も感情をも利用する。

 

すべては「自分のために」「自分の世界を創りこむために」使うの。

 

 

そうしたら、
出来事や感情に振り回されることがなくなるよ。
振り回されるというのは、出来事や感情に、自分自身が使われている状態。
中心に出来事や感情があって、その外側に自分自身がいて、出来事や感情によって右往左往しているから振り回されるのです。

逆です。逆にするのです。

中心に自分自身を置いて。そして外側で起きる出来事や感情をしっかり味わいつつ、「これをどう生かしたら、どう使ったら、もっと自分の望みとおりの世界ができるかな」を考えるの。

 

自分はいつも、自分自身の世界の中心に居続ける。

そして出来事も感情も「自分の世界を創るために」使う。

 

 

起きる出来事も、それによって発生する感情も、
自分のために起きているし、自分のために使うことができるんだよ。
人のために使っている(人の文句を言ったり、人や社会を正そうとしたり)場合じゃない。そんな無駄遣いしている場合じゃない。

 

すべては自分のために使おう。

 

 

 

 

そんな、フレーズだけみたら究極のワガママに見えるこの方法が、
平和や調和を生み出すための方法なのです。
自分の望みとおりの世界にいる人は、当然ながら、文句を言いつづけたり誰かを攻撃したりすることがないい。だって自分の望みどおりで、自分が満たされているから、気持ちや状況に余裕があるの。
だから人を攻撃しないどころか、人にやさしくする余裕すら、ある。

そうしてひとりひとりが、「満たされた自分の世界」を持ち合わせていたら、
「満たされた自分の世界」を持ち寄る人の集団は、満たされた世界になるはずでしょう。その結果、平和で穏やかな世界が広がるの。

 

だから、これは勝手なワガママなんかじゃない。

 

 

もう一度。

出来事もそこで発生する感情も、
すべては自分のために使おう。

出来事も感情も、
すべては自分の世界をよりよくするために、きっかけとして発生してるだけですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

❤︎記事を読んで良いこと!腑に落ちた!ミラクル!ハッピー!が起きたら…→豊かさの循環実験
循環起こして魅せましょう♡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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