信じるを貫く宣言

今日のコラムは半分は自分のために、半分は読んでくださる方のために書きます。

 

 

【これまでの人生で後悔をしていることはありますか?】

 

 

きっと人によって、
後悔はあまり無いよ、という人も、
後悔ばかりです…という人もいるでしょう。

後悔しないことが良いのでも悪いでもなくて、
後悔しすぎることが良いのでも悪いのでもなくて、

大切なのは

・現実に起きた出来事の事実と
・そのときの自分の心を
・正面からちゃんと見つめること

です。
それをsatya(サティア–正直であること)と言います。

 

これをちゃんとやると、
後悔しないことも、後悔しすぎることもありません。

 

自分の失敗や非を認めることができなくて「わたしには後悔なんて無い!」と言うことも、
必要以上に自分を否定して「後悔ばかりだ」となることもなくなるはずです。

正しく必要なだけ後悔することができる。
そしてこの「正しく必要なだけの後悔」というものが、とても大切です。これがトライ&エラーのエラーの部分となって、
「あぁ、次はこうしよう」という工夫や「次は同じ後悔をしないようにしよう」という改善点になって、自分がどんどん良い方に変わってゆく、成長してゆくから。

だから「正しく必要な後悔」をすることが大切で必要。
これをしないと、成長しない。変わらない。
まぁ、変わる必要ないです!このままでいいです!っていう人はそのままでいいんだけど、
せっかくだったらもっと幸せに、もっと力を抜いて、もっと楽しくなった方が良いじゃない?
わたしはそう思うから、だから、「より良い方に変わったらいいよね」という意味で、変わる(成長する)ことを推しています。

 

話はそれるけれど、ここで「わたしはこのままでいいし!」とか「後悔なんてないし!」「これまでに失敗したことなんてないし!」と言い張ってしまうのは、自分のエゴの作用です。
エゴが邪魔をして、奥底にある自分の望みを感じられなかったり、自分の失敗を認められなかったりしている状態です。エゴの邪魔によって、より良い方へ変化や成長をしなくなってしまうなんて、やっぱりもったいなくない?

 

–本題に戻って。

 

そういうわけで、これまでの人生を振り返ってみるとわたしにも後悔していることがあります。

大なり小なりいくつもあるそれらには、共通していることがある。
それは、「お金を気にしたり、誰かの意見を取り入れて、自分の本意の背いてしまった」という共通点です。

 

人並み以上に色々な出来事が起きる、今生のわたしの人生。
良いことも悪いことも、たくさんしてきたし体験してきたけれど、
「社会的に、一般的に、常識的に悪いことをしてしまった後悔」というのはありません。
「失敗してしまったあれはやらなければよかったな」という後悔もない。
わたしが感じる後悔って、悪いことだから、失敗したから、ということではないんです。
良い悪いや結果ではなく、
自分で自分の本意を裏切ったこと、自分のことを自分が信じられなかったこと、
これに対してものすごい後悔の気持ちが残っています。そんな共通点があることに気がつきました。

 

頭にきていて本当は行きたくないと感じていたのに、周囲の人や相手(との関係性)を気遣って出席したある席。
これは「空気を読んで」出席したから、その場はうまくいったし、その後の関係性もなんとなく保っています。けれども「なんとなく保っているそれ」に腹が立ち続けているんです。そして「これだったら、その場はもめようと関係性が壊れようと欠席すればよかった」と、今も心のどこかで思い続けています。

 

学生時代、論文を書くために調べていた街のこと。当時、まちづくりの勉強をしていたのだけれど、調べれば調べるほど「この街はこれから価値が出るぞ」という気持ちが生まれました。そして調べをすすめるうちに、その気持ちが確信になりました。
けれども当時は学生だったし、「絶対価値が出る」と思いながらも自分を信じきる自信がありませんでした。
本当は「この街の不動産を今のうちに取得しておいたら、すごく値上がるぞ」と思っていたのに、学生のわたしにはそんなお金はなかったし、「お金を持っている人に自信をもってプレゼンする勇気」もなかった。
だから何もしなかったのだけれど、当時目をつけていたその街は、当時からわたしが目をつけていた賃貸物件の家賃がもはや2〜3倍にまでなっています。
「あのとき、誰かに勇気をもってプレゼンだけでもすればよかった」と思っています。不動産を持てたこと持てなかったことという結果はどうでもいいのだけれど、その時の「この街はまじで絶対にくるよ!!!」という確信を、もしかしたら不動産を取得できるかもしれない力のある人に話すらしなかったことを、今でも悔いています。

 

他にも、
「本当は自分はその人のことが好きだったのに、ひとの意見を受け入れて人と別れてしまったこと」や、
「なんか変な人だな、と感じていたのに、見逃したらやっぱり変な人だった(けどもう取り返しがつかない)こと」や、
「相手に強く言うことにビビって言葉尻を緩めちゃったけれど、その結果相手がした選択によって、相手本人が苦しんでいるなう(ビビらないでもっとはっきりアドバイスすればよかった)」
なんてことがある。

細かいシチュエーションや事例はそれぞれ異なるけれど、共通しているのは、
「本当は自分はちゃんと感じたり思っていたことがあったのに、お金や相手や人の目にビビって、その自分が感じていたことを貫けなかった」ということです。

自分で自分のことを信じてあげられなかった。
自分が感じたこと、自分が思ったこと、自分の気持ちを尊重してあげられなかった。

 

それにものすごく後悔してる。
わたしはどうやら、そのポイントに後悔が生まれるタイプのようです。

 

 

わたしとおなじタイプの人もいるでしょう。
また、わたしとは異なる点に後悔ポイントがある人もいるでしょう。

いずれにせよ、人はそれぞれ心のくせというものがあって、
後悔している出来事を洗いざらいすると、何かしらの共通点が見つかるはずです。

 

ここで共通点が見つかったら。

次におなじことをしなければいいだけ。
次におなじことをしなくてすむために、この共通点を見つけるという作業が重要になるのです。

 

そういうわけで、わたしはこれからはもう絶対に、自分で自分を裏切らないと決めました。
わたしが感じたこと、思ったこと、生まれた気持ち、を全面的に信じてゆく。尊重してゆく。もう絶対そうする。そう決めた。

これは意固地になっている状態とは違います。そうじゃない。
意固地になっているのではなくて、自分から発生する感覚や思いや気持ちをいちいち信じきってゆくだけです。

だから例えば、ある出来事に対してわたしはAがいいなと感じたとする。そうしたら、わたしはAを推すんです。Aがいい、という感覚を100%信頼する、自分で。
そのときに誰かが「Bの方がいいじゃん」と言ったとしましょう。そのときに「いや、わたしは絶対にAがいいから!」と「全く意見を聞き入れない」のが意固地という状態です。
そうではなくて、「Bの方がいいじゃん」という人が現れたという事実も受け取った上で、その言葉も耳に入れた上で、「それで自分がどう感じるか」「それでも自分がどう感じるか」を自分に問い合わせるのです。
そしてそれでもAがいいと感じるのであれば、たとえ相手が「Bの方がいい」と言ったとしても自分はAを推せばいいし、たしかにBも良さそうだなと「素直にそう感じたら」AからBに乗り換えてもいいんです。

相手の「Bの方がいいじゃん」という発言に忖度したり流されたりして、安易にBに乗り換えることおはしません。
けれども、「Bの方がいいじゃん」という発言を聞いて「たしかに!」と心や感じ方が動くのであれば乗り換えるかもしれません。

そういう、動くことも動かないこともフラットに含めたうえで、
どこまでも、自分が感じること、思ったこと、生まれる気持ちを全面的に信じ続けてゆくのです。
わたしは今後絶対にそうしてゆきます。もう全面的に自分を信じてあげる。

 

しばらく前にこの決意をして、日々の実践をしていたら、
言葉にするのは簡単だけれども、実際に「信じるを貫く」というのは胆力と努力が必要だということがわかりました。
利害関係のある相手からの言葉や、大きな額のお金や、長年の関係性など、
自分が失うのが怖いと感じる何かを媒介したときに、人が容易に「自分の気持ちや意見を信じられなくなる」んです。

 

利害にのまれると、
「自分が気持ちは正しいのかな」が不安になって、
「意地になっているだけかも」「以前のあの出来事(トラウマ)がきっかけで今もこう感じているだけかも」というように、「自分の気持ちや感じることは間違っているかもしれない」ことを正当化しようとしてしまうのです。
そして正当化をして、相手の言葉やお金や長年の関係性を失わないために、
自分が感じたことや自分の気持ちを「ちがったかも!」と変更してしまうのです。

変更してしまう、と書いていますけれど、それはつまり、「信じるを貫く」をやめてしまうということ。自分で自分を信じることをやめてしまうの。利害関係の利を失うことにビビって、自分を信じてあげなくなってしまう。

 

だからここでぐっと肚に力を入れて(胆力)、「わたしはわたしを信じます」の努力をしないといけない。
そうしないと、自分を信じるを貫き続けられません。

 

これ、やってみたらわかるけれど結構な修行です。
でもやるけどね。わたしは、ね。

 

いまもいくつか、このような案件があるんです。
「これは絶対におかしい!変だ!」と感じているけれども、わたしの意見がその集団では圧倒的に少数派である出来事や、
「みんなが大丈夫、と言っているけれど、わたしには不安にしか感じないこと」や、
自分の中で感じているこれからの未来。

数で言ったら負けているし、「あなたがおかしい」と言われるし、
それを主張することによって受けそうなマイナスもあるし、
大多数に合わせておいた方が当面は安泰っぽいこともある。

けれども、どんなに「損してしまいそう」でも、リスキーだったとしても、
どんなに少数派だったとしても、なんなら「賛同者がわたしだけ」だったとしても、
それでもわたしはわたしの感じていることを信じよう。そう思っています。

 

これまでしてきたのと同じ後悔をしたくないから。
「あのとき感じたとおりにしておけば良かったよ…」という思いはもう二度と、自分にさせたくない。

 

 

これを貫いたあとに起きる展開が楽しみです。
信じるを貫くことはとてもとても怖くもあるのだけれど、
リスキーに見えるその先に、なんだかすごくおもしろそうな展開がある予感がしています。

 

 

正しく必要な後悔を洗いざらいして、
次の人生にすすみましょ。

 

 

 

 

 

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