視野の広がり

このところ、自分の視野や世界の広がりを実感することがある。

それはきっと、わたし自身の物理的な移動距離が広がったこともあるし、
それによって様々な国の人や人種と関わる機会が増えたために気づけるようになった、新しいわたしの視点なのだと思う。

  

  

数日前、どうしてもインドカレーが食べたくて、テイクアウェイすることにした。
インドカレーは家でも作れるけれど、
「自分で作った家のカレー」ではなくて、
「インドレストラン出てくるちょっと重たいカレー」が食べたくなったから。

南インド系のさらさら系のそれではなくて、
北インド系のこってりした、アレ。

  

徒歩圏内には、南インドカレーが有名な某店がある。
ここの味は間違いなく美味しい。そして何度も利用したことがあって、店長さんともすっかり仲良し。
しかし、わたしが食べたいのは北インド系のアレ。

それで、「どこに行こうかな?」と思いつつも、
良案が浮かばないので、とりあえず、で外へ出ることにした。

  

こういうときはいくら室内で思考していても、無駄。

思考ではなくて、自分の感覚が最もすすむべき方へ導いてくれることを知っているから、
感覚だけを頼りにとりあえずで出発してしまうのが良い。

「こっちの方へ行ってみよう」
「次は左かな」

そんな感じで道をすすむうちに、ふと、これまた有名店があることを思い出した。ここは北インド系のカレーと、チーズ入りにナンが抜群に美味しいお店。
何度も訪れたこともあって、味は絶対に間違いないことを知っている。
「良いインドレストランで食べる、本当に美味しいカレー」が出てくる。

これを思い出したから、その店の前まで行ってみた。

しかし辿り着いたところで、
「うーん。ランチのカレーはこのなかから選ぶのか」と、なんだか腑に落ちない感覚があった。

  

この「うーん」の感じがあるときは、
「ここじゃない」ということを知ってる。わたしの感覚が「違うよ」と教えてくれる時にこの「うーん」の感覚が毎度発生するんだよ。
そんなことは、ここまで自分の感覚と現実の相関を観察をしていればわかるようになる。

  

有名店だし。
味は絶対に間違いないし。
この日も混雑しているし。

社会的にみた信頼性はとても高いけれど、わたしの感覚は「うーん」だからしょうがない。

  

そして来た道を引き返していたら、
「そうだ!昔からあそこにインドレストランあるわ(お店の外観はしょぼいやつ)」を思い出した。
(しょぼいやつ)という記憶はあったけれど、なんだか足が向くもんだから行ってみることにした。

  

お店に到着して扉を開けたら。

ランチタイムなのに、お客さんが一人もいない。
このご時世だからかな。
店内の電気も半分消灯していて、寂しい感じ。

とりあえずメニューを見せてもらったら、カレーの種類がたくさんあった。

「そうそう、これ。こういうやつ。今日はこれがいいんだよ」という、わたしの本来の希望を叶えるような、
ベタなバターチキンカレーとか、シーフードカレーとか、ひよこ豆のカレーとか、そういう「北インド系ベタベタメニュー」がラインナップされていた。
おしゃれなチーズナンなんてない。普通にナン。
お店で食べるとナンはおかわり自由です!みたいな。そういうメニューとお店のノリ。

しかし「今日のわたしの希望」はこれなんだよ。

有名店でもなくていい。おしゃれでもなくていい。
カレーリーフの香りが高い本格的に美味しいサンバル、ではなくて、
わたしが食べたいのはコテコテの日本のインドレストランにあるインドカレー。
それが「この日の」わたしの希望。

  

セットメニューを見せてもらうものの、
サラダは不要だし、タンドリーチキンもいらないし、
でもカレーは2種類欲しい。
しかし、そんな都合の良いセットは準備されていない。

そこで、「カレーを2種類頼むから、このセットのタンドリーチキンをナンに変更して欲しい」と交渉してみた。

スタッフのお返事は「OK!」
ということで交渉成立。

出来上がりを待つ間にアイスコーヒーがサルビス(インド英語はRの音を発音する。サービス=サルビス)された。

パックされる最中にも、
「おしぼりはいらないよー」
「カトラリーもいらない!」
と口を出し、

無事に、そして過不足なく、欲しいカレーを手にいれた、
帰り際にスタッフが、「サンキュー、マム」と何度もありがとうを言ってくれた。

  

こちらこそ、完璧なカレーをセットしてくれてありがとう!なんだけど。

  

きっと、このご時世で営業を続けていくことがすごく大変なのだと思う。
外出自粛が続くいま、外食産業は基本的にどこも大変だものね。

  

この体験をして思ったの。
わたしはこの日に、このお店を利用して本当によかったな。と。

  

  

もしわたしが、
「あそこは有名店だから」という理由で別のお店を利用していたら。
「このご時世は大変だから、知人のお店を利用しよう」としていたら。

このインドレストランには絶対にたどり着かなかった。
あきらかに北インド出身(あるいはネパール人かな?とも憶測した)の彼らには、この日本の下町で知人なんて多くないじゃない?
もちろん有名店でもないじゃない?

だとしたら、
こういうお店は、誰がサポートしてくれるんだろう?

  

知人がいない土地では誰も助けてくれないの?
そんな世界はさみしくない?
わたしはもっとやさしい世界で暮らしたいと思ってるのに…。

  

  

人はよく、「知人だから」「友人だから」という善意をもとにした動機で誰かを助けたりサポートしたりするけれど、
それがいきすぎて、「知人だから」「友人だから」という動機にとらわれて行動をすると、

そこから漏れてしまう人も現れるんだ。
これは、これまで全く気づいていなかったポイントだ。

  

「知人だから」
「友人だから」
「あそこ(有名店や発信力のあるお店など)は困っているらしいから」

だからをサポートしよう。ということがよくあるけれど、
善意に見えるそれによって、結果あぶれてしまう人もいるんだね。

知人や友人の少ない人。
有名でもなく発信力もないお店。
こういうところはあぶれてしまう。

それが資本主義社会での競争なのかもしれないけれど、
その競争や弱肉強食ではこれ以上、調和は保たれないという限界を迎えているのが今なんじゃないかな?

  

ということは、
善意でしていたそれらの行動すら、人間のエゴなんだ…!!!

  

友人。知人。有名。発信力がある。

そういう、肩書きや関係性にとらわれていることそのものがエゴ。
善意かもしれないけれどエゴ。

そして「善意だから」というベースがあるからこそ、
それによってあぶれている人や困っている人がいることに気がつかなくなってしまう。
善意に満たされることで、「なにか良いことをした」気分で満足してしまって、
さらに広い世界で起きていることに目が向かなくなってしまうんだ。

特に、
有名や発信力があるもの、に善意を注いでいると、
いつの間にか自然と「力のあるもの」に加担することになってしまう。自分でも気づかぬうちに。
すると、力のあるものの力はますます大きくなり、力のないものがどんどん小さくなってしまう。あれ?そんな不均衡を望んでいるんだったっけ?
いつのまにか、ますます競争に加担しちゃってるんじゃない?

  

  

…バカだね。
まさしく盲点。

  

  

自分でも気がついていなかったこの点に、
「サンキュー、マム」と言われてハッと気がついた。

この外食産業がどこも大変な今。
それは日本だけではなくて、世界のどこでも、どこの国でも起きていること。ロックダウンが続くどこの国でも、外食産業はみな大変な思いをしている。

祖国ではない土地でレストラン営業をしている彼らにも、
家族がいて友人がいて、彼らの人生があるわけで。
もしかしたら、わたしが購入したたった2セットのカレーが、少なからず何かの足しになったかもしれないじゃない。
もちろん、カレー2セットで店舗の運営費が賄えるとは思わないけれど、「来てくれるお客さんがいた」という事実そのものが、わずかでも気持ちの励ましとなったらいいな。とは思ってる。

  

  

これまでは、友人、知人、地元のつながり、という、
「なにかしら自分とは関わりのある人や場所」に優先意識が向きがちだったけれど、もう、そういうのはやめようと決めた。

付き合いの有無や肩書きにうっかりとらわれて、自分の視野を狭めてしまうことはやめる。
一期一会で出会う人だって、そこで話が弾めば友人になるかもしれないしね。
となると、友人や知人といったくくりとは何なのだろうか?そのくくりって存在するもの?え?幻想だったかも?え?????

  

  

これからは、こんな小さいくくりにとらわれずに生きたいよ。

まだ出会っていない友人も世界にはたくさんいるんだろうし、
目の前に現れる人と、その都度、気持ちややさしさの交換ができれば、それが幸せじゃないか。

そしてもしそんな世界だったら、知人や友人という人がいない場所に自分が置かれたとしても、心配することなんてなにもない。だって、「目の前の人とやさしさを交換しあう」世界なんだもの。
心配なんていらないじゃない。

  

  

  

もしわたしがこの日、
知人のあの店や有名なあの店を利用していたら、こんなことには気づけなかったし、このお店で消費をすることもなかった。

しかし、行き先の定まらぬまま、
自分の感覚をアテにするだけで出発したから、このお店にたどり着けた。

やはり、思考をもとにして行動するよりも、
感覚やインスピレーションによって行動した方が、完璧にすすむべき方へ運ばれる。

  

この完璧というのは、
「わたし個人にとっての完璧」ではなくて、
「この世界全体としての調和のとれる完璧」なほう。

世界全体の調和というとてつもない大仕事の中で、「わたし」が担える仕事を与えてもらえるといいますか。

世界全体の調和のために、わたし一人の行動を生かす、という、とんでもない大プロジェクトに奉仕するわけだから、
当然、わたし個人レベルへの報酬もやってくるわけ。個人レベルの報酬というのは「わたしの望みが叶う」ということ。
この場合、食べたいと感じていた希望どおりのカレーが手にはいる、ってことね。

  

わたしが行くべき店に運ばれて、
そこへ行くことで、お店の人の役にも立って、
わたしも食べたかった味のカレーが食べられた。

もし、
友人だから。知人だから。有名店だから。
それらの理由に思考がとらわれて行動をしていたら、このスケールの調和には気がつかなかったはずだ。

  

やっぱり、思考よりもインスピレーションの方がはるかにスケールは大きくて、スケールの大きい調和の中での行動を導いてもらえる。

人類がみな、思考よりもインスピレーションをもとにした行動をするようになったらいいのにな。だってそうしたら、想像もつかない(なぜなら思考の枠を超えているから想像なんてできない)調和のとれた穏やかな世界がくるはずだもの。

  

  

  

  

  


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