丁寧な暮らし?

最近、鉄瓶(南部鉄器)を育てています。

「育てている」というのは今回手にした鉄瓶が、安価な内側がホーロー加工されているようなものではなく、職人さんの工房から直接譲り受けたというとっても良い物のため、
錆びさせないように気をつけたり、使い始めは内側に湯垢をつくまで慣らし使用したり、とまさに「状態を育てている」ところなのです。
はっきり言うとちょっとめんどくさて、すごく手間がかかってる。(そんなものとは露しらず気軽に手を出してしまった…)

 

この鉄瓶の話をしていたら「丁寧に暮らしてるね」とコメントいただいたのだけれど、
正直、鉄瓶を使うことが「丁寧な暮らし」ということではないと感じています。

手間がかかることは間違いないのだけれど、
手間がかかる=丁寧な暮らし、ではない。

おうちでハンドドリップのコーヒーを淹れることが「丁寧な暮らし」ではないし、
自家製パンを焼くことが「丁寧な暮らし」ではないよ。

そういうのはただの「趣味」であって、
おいしいコーヒーが飲みたいから、ちょっとかっこつけたことをしたいから、いい感じでコーヒーを淹れているだけだよね。だから趣味。

 

(だから安易にソレっぽいことをして「丁寧な暮らし」とか言う人もそのような記事も好きじゃないんだけど)

 

「丁寧に暮らす」「丁寧に生きる」というのは、自分の外側で起きる事象のことではなくて、
自分の内側で起きる小さな変化や反応にどれだけ気がつくことができるか、です。
目をこらしていないと流してしまうような些細なことに、どれだけ気がつけるか。言葉を変えると「意識的に生きる」っていうのと同じかもしれない。

 

「自分自身に対して」丁寧に生きる、ということ。

 

当たり前に流れ作業でやっている目の前の仕事が、本当にやりたいことなのかやりたくないのか、やってみてどう感じるのか、それは「今」やりたいことなのか、「今」やらなければならないことなのか。
何を食べたいのか、食べたくないのか。
休みたいのか、動きたいのか。
いま目の前の人が言った発言に、自分はどう感じているのか。
これから出掛ける移動手段は何で行きたいのか。車?電車?自転車?

…そういう、日常のおそろしく細かいところまで自分がどう感じていてどれを選んでいくのかをひとつひとつ精査して行動してゆくこと、それが「丁寧な暮らし」「丁寧に生きる」ということ。

自分自身のどんなに小さな感覚も反応も見逃さない、そしてそれを行動にうつすという、
自分自身へ対する丁寧さ。

 

昼時に「あー今日はハンバーガーが食べたいなぁ」という自分の感覚をキャッチして、
「どこのお店いきます?」って自分で自分に聞いて、
「近くにあるのはマックだけど、食べたいのはモス」という自分からの反応を受けて、
「えー遠くのモスまで行くのめんどくさいよ。でも食べたいよねー。早く食べられるのは近いほうだけど。どうする?」って自分と相談して、
「じゃあ行くなら何で行くの?自転車?車?」とか…もうさんざんいちいち自分会議を開催して、その決議に沿って行動する。
その結果がマックでもモスでも、そもそも出かけるのが億劫なことに気付いて自炊したとしても、
そこまで自分と相談して選んだ昼食はどれも丁寧だよ。
昼食がマックでもそれは「丁寧な暮らし」。

 

何を食べるから、何をするから、という形ではなくて、
どれだけ自分の感覚や気持ちを汲んであげられるか、そのプロセスをおざなりにしない。自分を無視しない。それが自分に対して丁寧である、ということ。

そうやって瞬間瞬間を自分自身に対して丁寧にすすめていくこと、そうやって生きている人を、
「丁寧な生き方」とか「丁寧な暮らし」というんだよ。

 

 

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