意識を起こそう

このところ「意識」について言ったり書いたり考えたり、ばかりしています。

 

というのもね、すごくがっかりすることがいくつかあって。
わたしはこのとおり、ヨガとインドが好きで、好きなものだからとても大切にそして真面目にそれらのことを受け取っている(けっこう硬派で一途なんですよ♡笑)のだけれど、
わたしの大切なそれを、雑に扱われてるように感じる出来事がいくつかあったのです。

例えば、
インドに行ったことのないヨガインストラクターが引率するヨガツアー、とか、
実際にクラスを教えたことがない人が担当するヨガ講座(それがけっこう大舞台)、とか。
ヨガもインドも大切にそして大真面目に捉えているわたしからしたら、やっぱり嫌なんです。
ヨガもインドも、知らない人や未経験の人がはじめてそれを体験したときに、せっかくだったら「楽しかった!」「おもしろいね!」「いいね!」と感じてもらいたいのです。だって、自分が良いと思っているだいすきなものなんだもん。自分が好きなものだから、「いいね」って共感される方がうれしいに決まってるじゃん。
こちらが経験してきたことを全部お伝えしたうえで、「楽しくない」「わたしには合わないわ」と判断されるのは、もちろん構わないです。ひとにはそれぞれ好みがあるからね。そこは絶対に否定しない。そしてその場合は、「わたしの伝え方も、わたしの経験もまだ不足するところがあったんだなぁ」と地味に真面目に反省もします。

けどさ、「行ったことがない」「やったことがない」という経験のない人がリードという立場をとった場で、「楽しくない」「合わない」と判断されることがあれば、それは悔しいです。だってそれは、ひとそれぞれの好みや趣味以前に、「リードする側が経験ゼロ」という致命的なリスクが最初からわかっていることだもの。
最初からわかっているリスクをそのままにしたままやっちゃって、「やっぱりダメでしたー」となるのは、わたしは嫌なのです。それなら最初からリスクを解決したうえでやりましょうよ、と考えるタイプなのです。

こういうわけでしばらくモヤモヤしていたのだけれど、
この話(ほぼ愚痴)を友人にしたら、その友人がね、「それがいい人もいるんだよ」と言うのです。そう聞いて、もう目から鱗。
行ったことのない人に引率してもらうインド、も「その人と一緒に行くこと」に目的があるから引率者の経験はどうでもいいらしい。なんなら場所もインドでなくともいいということ。
なるほどね、と納得しました。
目的もそこへの想いも、わたしが持っているものとは全然違うのです。
ただ、インドとかヨガという共通のフレーズがあるから、「わたしとおなじジャンルのやつかな?」と似たように感じていたけど、そもそもそれが勘違いでもはや全くの別物を扱っているのですね。納得しました。

 

でね、昨日の話じゃないけれど、
これのどちらが正しくてどちらが間違っている、ということではないのです。

一見似ているように見える全く違うものがある、というだけ。
この「一見似ているように見える」というところが問題で、
「ヨガ」「インド」という言葉がついていると、その中身はだいたい同じものに見えちゃうんだよね。
でもね、全然違いますから!
違うということにわたしも自覚していなかったけれど(だからこそ同じ「ヨガなのに」「インドなのに」なんでこうなるかなーとモヤモヤしていたけれど)、選ぶ側にも混同してほしくないなと思っています。

例えば、「寿司」とか「イタリアン」というひとつのくくりがあっても、その中には美味しいお店もいまいちなお店も、パスタが売りのお店もピザがオススメのお店も、内装はオシャレだけど味はいまいちなところも、その逆も、味は良いけどオーナーが無愛想なところも、高級だけれども味も雰囲気もすべて素晴らしいところから、値段のわりには…なところも、そういうレストランから、お湯をさしてパスタができちゃうインスタントまで、まぁ色々あります。趣旨や目的によって、いろいろな形がある。
でもキーワードは同じで、「寿司」「イタリアン」というひとつのくくりになっている。

「寿司」や「イタリアン」というのは、すでにわたしたちの生活に完全に馴染んでいるものだから、
一般のひとでもお店や味を判断する目が効く。そして自分の目的によって、お店を選ぶことができます。
けど、「ヨガ」や「インド」は「寿司」や「イタリアン」のようなものと比べたら、まださほどひとびとの生活に馴染みのあるものではないから、一般のひとはなかなか目が効かないんですね。選びなれていない。

この「見抜く目」を養えたらそれに越したことはないのだけれど、それを養うには時間も経験もそれなりにかかる。
たくさんレストランに行ったり何食も食べたり、そうしたらもちろん経験からの「見抜く目」は培われる。し、それはとても大切な自分の財産になる。
けれども、そうやって経験を積み重ねないと「見抜く目」が仕上がらないのだとしたら、見抜くことができるようになるまで物理的時間がかかる。しかしいま、自分にとって良いものを見分ける力も使いたい。

 

こういうときに、「意識」が生きていたら、
自分にとって良いもの合うもの、必要なものが選べるとわたしは思っています。

 

イタリアンを何食も食べてきた経験というのは、イタリアンレストランを見抜く目を養うけれども、それは「イタリアンの見分け」すこし派生して「イタリアンに限定しないレストラン全般の見分け」にしか使えない。

けれども、「意識」というのは万能だから意識が生きていたら、
「これは良い感じがする」「これは嫌な感じがする」というのをすべてにおいて感じる、判断することができるようになります。

 

はじめて会った時からいい感じの人や、逆に、嫌な感じのする人っているじゃない?
予約の段階のやりとりから良い感じなお店も、変な感じのお店もあるじゃない?
そういうのってだいたい、「最初に感じたそのとおり」な結果が起きるんだよね。
自分の意識がクリアに生きているときに、「この人いい感じ」と感じた人とは、その後も嫌な思いをすることなく縁や仕事が続いたりする。「この人変な感じだなぁ」と感じた人とはのちにトラブルや噛み合わないことが起きたりする。

このときに「自分の意識はクリアに生きている」というのはポイントで、
「最初はなんか良い感じの人だと感じたのに、やっぱり違ったなぁ、噛み合わないな」という展開が起きることもあって、こういうときをよーく振り返ると、最初の「なんか良い感じがする」という感覚を自分で誤っていることが多いです。最初に会うそのときに、自分が疲れていたり他の問題に気をとられていたりして、意識がクリアじゃないの。意識がクリアでないときは、「感じ間違い」をしやすいです。
(間違ったからダメだ、修行が足りない!という話ではないですよ。「感じ間違い」に気がついたら、「そのときはなぜ意識がクリアでなかったのか」を自省、精査するチャンスですよ。疲れてたな、とか、不本意なことがあったな、とか。自分でも気づかぬレベルでの疲労や不本意なことがあると意識が濁るから、振り返って気がついて次からそのポイントを気をつけたら良いのですよ。それを繰り返してゆくと、意識がますますクリアになる。クリアを保てる時間が増えてゆくの)

 

こうして意識がクリアになってゆくと、様々な面において、「良さそう」「変な感じ」が選べます。
また、自分の目的が何なのか、好みは何なのか、も自分でよくわかるようになります。

わたしは、自分が開くクラスやイベントは目的や好みが共通している人に参加してもらいたいし、その中でまた一緒に作り出せるものがあったら嬉しいなと思います。
目的や好みが違うのに、そこを見落として時間を一緒に過ごして、「なんだか楽しくなかった…」となるのは、お互いにとって有益なことではないもの。せっかく時間とエネルギーをともに使うなら、「楽しかったハッピー!」で終わりたい。

自分がどこかで出かけるとき、食事をするとき、サロンへ行くとき、も目的や好みの合うところへ行って「楽しかった」「気持ちよかった」という気持ちで時間を過ごしたいもの。その方が、自分にとってもお店の人にとっても幸せじゃないですか。

 

そのために重要なのが意識だと思っています。

 

そしてまた、ひとがこの意識をクリアにして使うことができたら、平和で気持ちがいい世界になると思っています。
クリアな意識は「良い感じがする」ほうを自然に選べるようになってくる。そうしたら例えば、戦争とか嘘とか人を騙すこと、というような「気持ちよくないこと」は選ばなくなるでしょう。
ひとが自然とそちらを選ぶようになれば、選ばれないことは自ずと無くなってゆくしかない。だって誰も選ばないんだもの。ひとが選ばなければ、無くなるほかないよね。

そうしたら平和で気持ちいい世界が残ってゆく。

 

その「意識」にアプローチする方法を体系化してあるものが、古典的なヨガです。ヨガの教えのなかには意識の使い方がすでに書いてある。
だからヨガやってね、クラス来てね、というのはいつも大前提にあるけれど、
クラス以外でも意識にアプローチできることはないかなぁ?と考えたさきに出来上がったのが、このコラムなんです。実は。

文章から響くアプローチができたらいなぁと思って、書いています。
少しずつ実験的にはじめたことだけれど、読んでくださっているひとに何かしらの変化が起きているのを目の当たりにしていて、「やっぱりね」という確信も持てて来た今日このごろでもあります。

ここで書いている文章も、意識へのアプローチなんです。
読むだけで、眠っていた意識が起きてきますように。そう想って書いています。

意識の起きているひとと気持ちいい世界で過ごしていきたいんだもん。

 

 

意識がいきていたら、「これが正しいんですよ」「これは間違っていますよ」というキャッチーななにかや表面的に目立つなにかに惑わされることなく、
本当に自分に必要で心地よいものを選べるようになりますよ。

食べ物でも、治療法でも、ファッションでも、選挙でも、使う言葉でも、出かける場所も、会う人も、一緒に過ごす人も、もうすべてにおいて。
誰かがいう「良いもの」でなくて、自分にとって一番適している「これ」を選べるようになります。
それはとても気分がよくて無理がない、健やかな状態です。日々しあわせに健やかに過ごせる、これにこしたことはないでしょう。

 

 

今日もクリアな意識とともに、クリアな選択を重ねましょ。

 

 

 

 

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